神父たちのバカンス事情



1

「何、考えてるの?」
 車窓をぼんやり眺めていた星螺は、不意に声を掛けられて、はっと我に返った。
「あ………ごめんなさい。何?」
「いや、さっきから黙りこんでるからどうしたのかなーって。もしかして、お腹でも空いた?」
 器用にハンドルを操りながら顔を覗きこんでくるシュテファンに、星螺はゆるく頭を横に振ってみせる。
「いいえ、大丈夫よ。………ちょっと、きのう寝るのが遅くなっちゃってね」
「寝不足?」
 一瞬、男の目が心配そうに細まったが、すぐに明るい調子の声がつづいた。
「いいよ、眠いなら寝ちゃって。セーラが熟睡してても、僕、別にヘンなことしないから」
「ちょっ、………何云ってるのよ、もう」
 思わず頬が熱くなったが、いつもの彼らしい冗談に苦笑して、星螺は男の二の腕を軽く叩(はた)いてやった。シュテファンもそんな彼女の反応をおかしそうに笑っている。
「まあ、大きな渋滞でもない限り、夕方までにはあっちに着けると思うけど」
 再びフロントガラスの向こうへ意識を向けながら、シュテファンが云った。
「今日は丸一日、車の旅になるから。休める時に休んでおいたほうがいい」
「ええ………」
 頷きながら再び車窓に視線を戻して、星螺は小さなため息をついた。
 今さらながら、緊張と戸惑いが頭をもたげている。
 ――――――私………本当に来ちゃってもよかったのかしら………――――――?

 ことの発端は、月初めに珍しくシュテファンのほうからかかってきた、一本の電話だった。
『セーラ、今月の三週目って空いてる?』
「うん?」
 挨拶もそこそこにこう訊ねられた時、星螺はちょうどコーヒーを淹れていた。くるくると小さな円を描くように、ヤカンの口をまわしながら湯を注ぎこむと、そのたびに、泡立つコーヒーの粉がむくむく盛り上がって、ちょっとチョコレートムースみたいに見える。
「えっと………そうね。夏休み中は特に何の予定もないけど………。なんで?」
『僕と、イタリアへ行かない? 三泊四日で』
 ――――――云われた言葉を理解するのに、たっぷり四、五秒はかかったろうか。
 一瞬のうちに、心臓が恐ろしく大きな鼓動を立て始めた。
 喉がつまって、声も出ない。
 頭に浮かぶ文字は、すべてクエスチョンマーク付きだ。
(イタリア?)
(シュテファンと一緒に?)
(私が?)
(三泊四日も?)
『いや、ほら、最後に逢った時、海へ行きたいって云ってただろ。メジャーじゃないけど静かなビーチがあるとこ、知ってるんだ。セーラもリラックスできると思うんだけど………』
 星螺が沈黙したままなので、シュテファンは話しつづけている。
『………どうかな? 急がないから、行くかどうかは直前までに決めてくれればいい。だから………』
「きゃあぁぁぁぁっ」

 うっかりヤカンの熱湯を足にかけて、一旦通話は中断されたものの、ほどなくして、二人は七月の某日早朝、一緒にイタリアへ出発する約束を交わした。
 そして今日、まさにその約束通り、こうして彼と落ち合ったわけだが………。
「………………………」
 運転する男の横顔をチラリと盗み見る。
 デニムジーンズと、白地に青のチェック模様が入った半袖シャツの、ラフな服装。
 フロントガラス越しに差し込む夏の陽光の中では、そのくすんだ金髪も輝いている。
 表情も雰囲気も、いつもの彼とまるで変わらない。
 何度目かのため息が出る。
 ………誘われた時は、何も考えずに勢いで承諾してしまった。
 いつか、シュテファンと一緒に遠方へ出かけられたらと、長いこと願ってきた星螺である。思いがけず夢が実現することになって、素直に嬉しかった。その気持ち自体は今も変わらない。
 ――――――それなのに………。
 心の中の一角で、なりをひそめる一筋の翳がある。
 それが湧きでてきた元凶を思うと、よけい情けない気持ちになってしまう………。

 星螺とシュテファンは、こう見えても、レッキとした恋人同士ではない。
 強いて云うなら、友人。もしくは、義理の父娘とでもいったところだろうか。
 無論、星螺のほうはシュテファンへの深い恋心を抱いている。初めて出逢った時から今日に至るまで、気持ちはずっと変わっていない。そして、そのことはシュテファンも知っている。
 しかし、仮にお互い同じ気持ちだったとしても、ふたりにはスンナリとそういう関係になれない様々な事情があった。
 二回りも違う年の差。
 カトリックの司祭という、シュテファンの社会における立場………――――――。
 そもそも、シュテファンが星螺をどんな存在として見ているのか、とりあえず今までに一度も彼自身のハッキリとした意思を言葉で聞いたためしがないので、そんな肝心な部分でさえ確かでない。
 もっとも、親友のヘレナはふたりが一緒にいる様子は恋人同士にしか見えないと云っていたし、星螺自身、シュテファンが声音や表情、態度や眼差しで発してくる雰囲気に、甘く胸をきゅんとしめつけてくるような、懐かしい、恋人特有の何かを始終感じ取っている。
 それでも、………わからないものはわからない。
 このような状態で泊まりがけの旅に誘われ、星螺の心情は複雑だった。
 一般的に、男女が二人で一泊以上の旅をするのにどのような意味が含まれえるのか、星螺も流石に理解できない年ではない。しかも心のどこかでは、宿を共にすることで関係が進展するのではないか………もっと親密になれるのではないかと、期待すらしている。
 しかし仮に………本当に、もし、もしも仮に、だけれど、………その期待が叶えられることになったとしても、異性経験がまるない星螺には、不安でわからないことばかり。運の悪いことに、こういう時こそいちばん頼りになるヘレナは、仕事で外国へ行ってしまって来月にならないと帰らない。
 お蔭でとうとう、誰にも相談できないまま約束の日が来てしまった。
 ――――――そしてまた、そのような自分に、恥ずかしさや情けなさを覚える。
 こんな期待や不安や緊張などが堂々巡りをして、昨夜もとうとうろくに眠れなかった。
 ………こんな気持ちのまま、出てきちゃってよかったのかな………――――――。

 ふと、左頬にあたる視線に振りかえってみると、やはりシュテファンの青緑色の眸がこちらを見つめていた。………そのまま眼差しが絡み合う。
 しかしすぐに、彼は目だけで「どうしたの?」と問いかけてきた。
 星螺は慌ててにっこりと笑顔をつくってみせる。
 それを見て、シュテファンも安心したように微笑み返した。
 ――――――いけない、いけない。
 私、顔に出やすいんだから、気をつけなくちゃ。彼に要らぬ心配をかけてしまう。
 それに、今さら悩んでも仕方がない。乗り掛かった船だ。こうなったら、せっかくの旅を楽しむ以外、何ができるというのだろう。
 星螺は再び口から出そうになった溜息を寸前で飲みこむと、とりあえず、寝不足の身体を休めるために、そっと瞼を閉じた。




 幸い渋滞や事故に巻き込まれることもなく、オーストリアを経てイタリアへ抜ける長い長い車の旅は、夕方の八時を回った頃、無事に終わりを迎えた。
 宿泊先は、一見、あたりの民家と何ら変わらない外見のペンションだった。
 その三階にある、バスルームとキッチン、そして二つの別々の寝室という構造になった部屋を見て、星螺は内心ほっと胸を撫で下ろした。考えてみれば、どんなに親しい間柄でも礼儀を忘れないシュテファンらしい、相手のプライベート空間を慮った宿の選択であった。
 めいめい部屋に荷物を置き、散歩がてら夕食をとるため街へ出る。
 メジャーな場所ではないというシュテファンの言葉どおり、観光シーズンも真っ盛りというのに、この街は静かな佇まいを見せていた。喧騒に過敏な星螺にとっては、とても居心地がいい。しかしそれなりの賑わいはあって、行き交う人の中からは英語やドイツ語も聞こえ、外国からの観光客もいくらかいるようだ。まさに穴場なのだろう。
 二人は、こじんまりとしたお洒落な店でワインと海鮮料理を楽しむと、浜辺へ行ってみた。
 潮の香を含んだ海風が心地いい。黄昏色に染まった透明な空を、カモメたちが舞っている。
「………きれいなところね」
 星螺の囁きに、隣のシュテファンが微かに笑んだ。
「気に入って貰えたようで嬉しいよ」
 それがまるで、よく知っているものについて話す口ぶりであることに、星螺は今さらのように気がついた。考えてみれば、自分が行ったことのないような場所へ、彼が誰かを誘うとは思えない。ということは、シュテファンは以前もたびたびここを訪れていたのだろうか。
 二人は黙ったまま、しばらく砂の上に立ちつくして、暮れていく空と海を眺めた。
 大自然の美しさに心を奪われながらも、星螺は、すぐそばに立っている男の体温を意識せずにはいられなかった。カモメの鳴き声と波の音の中に、彼の息遣いまで聞こえてくるような気がする。
 ――――――今夜、どうなるんだろう。
 それまですっかり忘れていたことが不意に頭をもたげてきて、星螺は慌てて首を振った。
 いけない。今ここでそんなこと考えたら、意識しすぎて挙動不審になっちゃう。
「………そろそろ、帰ろうか」
 頭上でシュテファンが云った。
「………ええ………」
 こちらの答をほとんど待たずに踵を返した男を、星螺も急いで追いかける。やっと追いついて隣に並んだ時、彼の小さな溜息が聞こえた。見上げると、今までに見ないほど憔悴した表情がある。
「………大丈夫?」
 心配になってそっと声を掛ける。
「え? ああ………うん、大丈夫だよ」
 返事する顔は笑っているが、やはりどこかぎこちない。
 ふと、星螺は思い当たった。
 シュテファンは、今日は丸一日、たった一人で車を運転していたのだ。星螺が何度交代しようと申し出ても、優しくではあるが頑なに拒んで、どうしてもハンドルを譲らなかった。
 しかも他人と一緒にいる。いくら友人同士として気心の知れた仲だからといって、これだけ長時間を共にしていれば、気配り上手なシュテファンのことだから相当エネルギーを使ったのだろう。
 こんなに疲弊した様子のシュテファンは、見たことがなかった。
 きっと、もう隠しようのないほど疲れきってしまっているのだ。
 そんなことにも気付かず彼に任せっきりだったうえ、変な心配をしていた自分が恥ずかしい。
「………今日はもう、ゆっくり休むといいわ」
「………うん………――――――」
 星螺は、この二回りも年上の男にまるで弟か息子のような愛しさを覚えて、そっと、その背中に掌をあてがった。



 欧州の夏は、日が長い。
 まだ西の空には仄かな明るさが残っているというのに、腕時計は午後の十一時半を指している。
「やだ………もうこんな遅いんだ」
 じわっと額に汗が滲んだ。
 散歩に出たのはよかったけれど、黄昏時の空を映した海があまりにも美しくて、ついつい浜辺に長居してしまった。気がつけば、辺りにもほとんど人がいない。慌てて帰路につく。宿をとったホテルはビーチからそう遠くはなかったから、来た通りの道を辿れば、十分ほどで帰れる………はずだった。
 ところがどこでどう間違えたのか、もう三十分ほど歩いているのになかなかホテルに辿り着けない。
 おかしいな。そんな方向音痴じゃなかったはずなのに……。
 ちょっとだけ出掛けるつもりだったから、地図も携帯電話も部屋に置いたままだった。おまけに連れの彼はおろか、誰にも自分の行き先を告げていない。
 ――――――迷子になったのだとしたら、最悪だ。
「ええと………確か、曲ったのは一回だけだったから………――――――」
 必死で記憶の糸を手繰りながら、浜辺と自分の位置関係をもとに、ホテルへの正しい方向を割り出そうとする。しかし、外灯に照らし出された夜の街は、まだ昼間のように明るかった数時間前と大分違って見えるし、おまけにどの路地も似たり寄ったりで、まるで見分けがつかない。
「ええ………やばいよ、どうしよう………」
 何度か角を曲がった挙句、まったく見覚えのない薄暗い場所へ来てしまった。
 人に道を訊ねたくても、あたりには猫の子一匹見当たらない。
 深い溜息が出た。
 ――――――そういえばずっと前にも、こんなふうに迷子になったことがあったっけ。
 もっとも、あれは世界でも指折りの観光地でのことで、周囲には無数の人が溢れていた。状況自体は今と大分違う。
 それでも、見知らぬ場所に取り残された孤独感はあの時と同じだ。
 ――――――あの時は、“彼”が助けてくれたけれど………。
 ほとんど泣きそうになりながらそんな回想に耽っていた時、背後で幽かな靴音がした。
 振り返ると、少し離れたところに人が立っている。
 外灯を背にしているため、顔は影になっていてよく見えないが、背が高く、長い髪を垂らしたシルエットは、まさに今回想していた“彼”にとてもよく似ている。そのためか人影がまっすぐこちらへ歩み寄って来ても、特に不審にも思わずそのまま佇んでいた。
 だから、自分の目の前に立ちはだかったまま一言も声を発しない男の様子に、ようやく何か不穏なものを察知した時には、もう逃げだす暇もなかった。




 ――――――くそ。
 やっぱり、こりゃあダメだな。
 何度目かの寝返りを打った後、シュテファンは寝床から抜け出した。
 衣服を身につけて、そっと自分の寝室を出る。
 向かいのバスルームからタイルを叩く水飛沫の音が聞こえてくるのは、セーラがシャワーを使っているのだろう。思わず一瞬、その扉の前で体が硬直したのを勢いよくかぶりを振って、シュテファンはそそくさと玄関の扉を滑り出た。
 時刻はもう真夜中近いはずだが、夜風は温かかった。幽かに波の音がする。
 しかし、シュテファンは浜辺のほうへ行かずに、人通りの少ない入り組んだ路地を歩きまわった。
 ――――――まったく………いい年をして、一体全体俺は何をやってるんだろう。
 女性の気配が気になって眠れないなんて………まるで、思春期のガキじゃないか。
 我ながら情けない。
 仕事の都合上、様々な女性と触れ合う機会は多いシュテファンだった。それこそ毎日のように、ピチピチで若々しい女学生に取り巻かれている。魅力的な女性にも多く巡り合った。それでも、もともとの性格のためか、年のせいもあるのか、これといって異性の誘惑に心乱されるようなことはほとんどなかった。そりゃあ、若くてきれいな女の子を目の前にすれば、男として悪い気はしない。でも、せいぜい可愛いなあと目の保養程度に楽しめるくらいの、心の余裕はいつも持っていた。こんな、眠れなくなるほど自分が反応するようなことなんて、まるでなかったのだ。
 ――――――迂闊だったな。
 シュテファンは少々、今回、セーラを旅行に誘ったことを悔やみはじめていた。

「………そういえば、シュテファン兄さん、七月末の旅行だけど」
 シュテファンと同じ聖職者で、肉親の中でももっとも親密な関係にある弟のラジスラフがこう切り出してきたのは、先月末、仕事で数日滞在した兄の部屋から帰ろうとしている時だった。
「僕、行けないから」
「………は?」
 弟の言葉が脳細胞に伝達されるのに数秒かかり、シュテファンは間の抜けた声を出した。
「行けない? なんで?」
「うっかりしてたんだけど、ちょうどその週、僕の教区で結婚式を挙げるカップルがいるんだよね。それ、すっかり忘れてて」
「………お前にしちゃ珍しいな」
 シュテファンは思わず眉を上げた。
 もとが芸術家気質でボヘミアンなところのある自分ならいざ知らず、しっかり者で生真面目な弟が、自分の仕事のスケジュールを確認もせずに旅行の予定を組むなど、想像もできないし、実際今までにそんなことは一度もなかった。
「まったくだ。僕も兄さんに似てきたのかな」
 当の本人は、ふっくらしたパンみたいに丸い顔でくすくす笑っている。
「じゃあ………宿、キャンセルするか」
「あ、それ無理。今回はキャンセル不可ってことで、宿代を安くして貰ったから」
「おいおい………」
 今度こそシュテファンもすっかり呆れ返って、ため息をついた。
 まったく、こんな珍しいこともないもんだ。
 シュテファンには、毎年恒例のプライベート行事がふたつあった。
 ひとつは、たった独りで一週間ほどくつろぐクロアチアでの海水浴。
 ふたつめは、この気の置けない弟と、北イタリアにある某港町で過ごすバカンスである。
 毎年の夏、必ず三日か四日は確保しておいて、管理人とも顔なじみになったペンションに宿をとり、兄弟水いらずで、まったりと海を満喫している。
 これまではいつも、宿の予約から何から弟が率先して手配していた。だからシュテファンも、弟がいつ宿の予約をとっているのか知らなかったし、そもそもあのペンションに、キャンセル不可の値引きサービスがあることなんか、まるで把握していなかったのだ。
 しかも、お金に几帳面な弟がこんな失敗をするなんて………こりゃあ天地がひっくり返るぜ。
「せっかくなんだから、兄さんは行っておいでよ」
 荷物をよっこらしょと肩に担ぎながら、ラジスラフは涼しい顔をしてさらりと云う。
「俺独りでかよ」
 弟を送りだそうと腰を上げつつ、シュテファンは苦笑した。そのまま二人は、狭い廊下を縦に並んで表玄関へ向かっていく。
「兄さんの好きにすればいいんじゃない」
 おおかた冗談で云っているのだろうと思ったが、口調こそ軽いものの、ラジスラフの声は普通に真面目だった。そして、荷物を抱えた自分のために、玄関の扉を開けてやっている兄の顔を一瞥すると、しれっとこう云ってのけた。
「僕、別に兄さんが誰を一緒に連れて行こうと興味ないから。じゃあね」
 きょとんとしているシュテファンの目の前で、重い扉が閉まった。

 ――――――数日後、セーラをこの旅行に誘った時は、特に何も考えていなかった。
 単に、彼女が海へ行きたいと口にしていたことを思い出したのと、弟以外に気兼ねなくバカンスを共に楽しめる相手として、セーラの他に適当な人物が思いつかなかったためだ。
 ところがどっこい、現実はシュテファンの想像と少し違っていた。
 今朝、約束の場所でセーラと落ち合った時、ノースリーブのドレスという珍しく女らしい装いの彼女を見て、シュテファンはようやく、セーラがレッキとした女性であり、また自分もレッキとした男性だったことを思い出した。………というよりも、今日逢ってからずっと、些細な折々に異性としてのセーラを意識してしまう自分に、戸惑いっぱなしだったのだ。
 それでもドライブ中はなんとかなった。道中のほとんどを助手席で眠っていたセーラだが、肩のショールが落ちて、色白のきれいな首筋が見えても、運転に集中することで目のやり場に困ることもなかった。それに、寝息を立てる無防備な顔はどこかあどけなく、大人の女性というより小さな女の子みたいで、父親のような優しい気持ちになれた。
 しかしペンションに投錨する段になって、シュテファンは、人生最大の失敗を犯したことにようやく気がついた人のように、すっかりたじろいでしまった。
 ――――――これから三晩も、彼女と同じ屋根の下で眠るのか!
 幸い寝室はセパレートされているものの、やはり、身近な気配を感じないわけにはいかない。自分の心や身体がどんな反応を示すか、シュテファンは不安に駆られた。
 そもそも、こういう形で女性を旅行に誘った場合、それが世間一般で何を意味するのか、すっかり失念していた自分にほとほと呆れた。誘われた時、セーラは一体どう思ったろう。
 承知してくれたということは、何か期待しているのだろうか。
 それともまったく、こういうことには無知なのか。
 ――――――て、おいおいおい。なんだってこんなことを考えてるんだ、俺は。
 このような自問自答が、荷物をといて、セーラと夕飯を食べ、浜辺を散歩している間中、シュテファンの頭の中で壊れたレコードよろしく際限なく繰り返された。きっと挙動不審になっていたのだろう、最後にはセーラに体調を心配され、早々に寝かしつけられてしまった。
 疲れているのは本当だったので、シュテファンも素直にベッドへ潜り込んでみたのだが、セーラがバスルームへ立った気配を察した途端、すっかり目が冴えてしまった。心臓がドキドキして落ち着かない。神父生活のお蔭もあってあまり経験のないことだけに、シュテファンはすっかりうろたえてしまった。
 とにかく、昂ぶったものを鎮めるためには散歩がいちばんと、こっそりペンションを逃げ出した。
 今から思うと、そもそも、ラジスラフの行動もおかしかった。
 自分の仕事とバカンスがダブルブッキングしたり、万一の時に不都合なキャンセル不可の予約をしたり、やることなすことがまったく彼らしくない。
 最初からわざと、何か企んでいたのではないかとすら思いたくなる。
(――――――いや、まさか………)
 セーラと面識こそなかったが、ラジスラフは、シュテファンが自ら彼女のことについて打ち明けた、この世でたった一人の人物だった。
 しかし、それも今までに一度か二度のことで、その後は何度か、それとなく遠まわしに、恋する女性に対する中途半端な兄の態度を批判したことはあったものの、特に取り立てて、セーラのことを話し合っていたわけではない。自分の好きな相手と旅に出ればいいと云う弟の言葉は意味深だが、それがセーラのことだったと決めるのは早合点だろう。
 だけど、セーラもセーラだ。
 天使みたいに穢れの無い顔をして、思いがけないところで男の寿命を縮めるようなことをする。
 あれでまったくの無自覚なのだから、よけいに恐ろしい。
 あんな、胸元のあいたデコルテ丸見えの服を着てきたり、甘い笑顔を見せられたり、変なタイミングで背中や二の腕を撫でられたりしたら………。
 ――――――ふと、シュテファンの足が止まった。
 それとも、彼女、………わざとやってたのかな。ひょっとして、本当に俺と………………。
 突然、隣の路地で犬が吠えて、シュテファンはハッと我に返った。苦笑して再び歩き出す。
 バカな! また俺はおかしなことを考えている。
 良識ある家庭に育ったセーラが、そんな身持ちの悪いことを考えるもんか。
 だいたい、俺は彼女に限らずどんな女性とも、そんな仲にはなりたくないし、なれないんだ。
 ただ、彼女が純粋にこのバカンスを楽しんでくれさえすれば――――――。
 そこまで考えて、また、足を止める。
 ………そういえば、俺も今日はそうとう挙動不審だったろうが、セーラもなんだかおかしかった。寝不足だと云っていたけれど溜息ばかりついていたし、時々、何か嫌な考えを払いのけるように激しく頭を振っていたっけ。
「………――――――」
 まさか………本当は、あまり来たくなかった………なんてこと、ないよな。一度承諾した手前、断り切れずにズルズルついてきちゃったとか? それとも、俺、何か彼女の気持ちを萎えさせるようなことでも、やっちゃったかな………。
 シュテファンは頭を振った。
 気持ちが落ち着くどころか、歩いていても次から次へと不安や疑念が押し寄せてきて、まったくお話にならない。かといってこのまま部屋へ戻っても、きっとまんじりともできないだろう。これならいっそ、近くのバールで酒でも飲みながら、夜明かししたほうがいいかもしれない。
 俺もヤキがまわったな………。
 夜空を見上げながら嘆息した、その時だった。

「きゃぁあっ………」
 甲高い叫び声。
 聞えたのはたった一瞬だったが、女性の悲鳴………しかも、そう遠くない。
 シュテファンは咄嗟に駆けだした。
 そういえばここは、入り組んだ路地がたくさんあって、町でも特に治安の悪い区域。
 何かあってからでは遅い。
 直感で、悲鳴が上がったと思われる場所への角を曲がる。
 すると案の定、暗い路地の奥を、大きなものを引き摺る人影が目に飛び込んできた。
「Ola! Che cosa fai?(おい、何をしている)」
 シュテファンの声にハッと振り返った男は、抱え込んでいたものを放り投げて、恐ろしい速さで逃げ去ってしまった。一瞬の出来事だった。
 シュテファンが倒れているもののそばへ駆け寄ると、やはり、それは若い女性の身体だった。
 どうやら、路地の奥にある空地へ連れ込まれようとしていたらしい。おそらく最悪の事態には至っていないだろうが、悲鳴をあげたために暴力を振るわれて、怪我をしている可能性がある。
 とにかくまずは、彼女を安心させることが必要だ。
「Va tutto bene?(大丈夫ですか)」
 声を掛けながらそっと肩を抱き起こしてやると、女性はひっしとシュテファンの胸に縋りついてきた。小さな子供が父親か母親に抱きつくのと同じ格好だった。
 咽び泣くような荒い息遣い。全身が細かく震えている。
 ………可哀そうに、よほど怖かったのだろう。
 シュテファンもそんな相手が不憫になって、安心できるようにしばらく背中を撫でつづけた。
 身体に押し付けられている胸は豊かだが、どちらかというと小柄な体型。………ひょっとしたら、十代の少女かもしれない。
 ところが、ゆっくり面差しを上げたその顔を見て、シュテファンは思わずぎょっとなった。
 ――――――セーラ?!
 しかし一瞬で、それが錯覚であることがわかった。
 女性は、この町では滅多に見かけない東洋人だった。暗がりの中で、日本の血が流れるセーラの容貌とダブって見えたのだろう。てっきり地元の人間だと思いこんでいたためによけい驚いてしまったが、よくよく見れてみれば、同じ東洋人として似通ったところはあるものの、セーラとは全然違うタイプの女性であることがわかる。
 彼女はシュテファンの腕の中で身を縮めたまま、おそるおそる周囲を見回していたが、身に降りかかった危険が去ったことを理解したらしく、ほっと吐息をついた。
 そして、自分を見守っている男を見上げた。
 大きくて円らな眸。………セーラと同じ、ヘイゼルの色。
「大丈夫ですか? どこか、痛いところはありませんか」
 おそらく観光客と見て、シュテファンは英語に切り替えた。あまりのショックのために動揺しているらしく、なかなか理解できないようだったが、二度ほど同じ言葉をゆっくり繰り返すと、女性はこくこくと頷いて、震える声で呟いた。
「A..., arigatou gozaimasu.」
 ――――――ん?
 シュテファンは眉を上げた。
 アリガトウゴザイマス………って、聞いたことあるな。
「もしかして………日本の方ですか?」
 そう訊ねてみると、今度は一発で理解したらしく、勢いよく何度も頷いている。
 一瞬、シュテファンの脳裏にセーラをここへ呼ぼうかという考えが閃いた。
 女性相手のほうが安心できるだろうし、もし、医者や警察へ行く必要が出た時に、日本語のわかるセーラがそばについていれば心強かろう。
 しかし、そうこうしているうちに女性はかなり落ち着きを取り戻したらしく、かたことでもシュテファンと英語で意思疎通できるようになった。
 危険を察して悲鳴をあげようとした時、騒がれないようにナイフを突き付けられただけで結局何もされなかったから、今は一刻も早く宿泊先のホテルへ帰りたいと云う。
 シュテファンもざっと観察したが、女性に目立った外傷もなさそうだし、本当は深夜にセーラを外へ呼び出すのもあまりいい気がしなかったので、彼女の意に沿うことにした。
「それじゃあ、ご宿泊先までお送りしましょう」
「いいんですか?」
 女性は恐縮したが、やはり、この申し出にほっとしたようだった。まだ、さっきの男がどこか近くに潜んでいないとも限らないし、紳士(ジェントルマン)として最低限のエチケットは守りたい。
 宿泊先を訊ねると、この町でも最高級のリゾートホテルだった。毎年訪れている町のこと、シュテファンにもわかる場所だったので、二人は十分ほどでホテルの入り口へ到着した。
「あの、………本当に、お世話になりまして………どうもありがとうございました」
 ドアマンの護る戸口の前で、女性はシュテファンに向かって丁寧に頭を下げた。
 肩までの黒髪が、さらりと前に垂れる。
 そして、彼女が再び面を上げた時、シュテファンはふと不思議な感覚を覚えた。
 この顔――――――どこかで見たことがあったような?
 しかし、それは一瞬胸を掠めただけで、シュテファンはにっこり微笑みかけた。
「どういたしまして。今後は、くれぐれも気をつけて下さいね」
「はい。ありがとうございました」
 あらためて挨拶を交わし、念のため、女性がすっかり建物の中へ吸い込まれるまで待ってから、シュテファンも帰路についた。
 ………思いがけないアクシデントだったが、気持ちを切り替えるにはよい薬になったようだ。
 うっすらと頭の中に靄がかかる。
 シュテファンはようやく、自分の身体を健全な睡魔が訪れようとしているのを感じた。



(――――――………どうしよう………―――)
 目の前に立ちはだかる、木目の扉。
 このままでいても仕方がないことは、よくわかっているのに、………どうしても身体が動かない。
 星螺はもう十五分ほど、シュテファンの寝室の前に立ち尽くしていた。
 何度、ノックするために震える右手を差し出しては、やはりそうできずに引っ込めるのを繰り返したかわからない。かといって、自室に引っ込むこともできないままだ。
 私………一体、何をしようというんだろう?
 さっきシャワーを浴びた後も、軽く扉に耳を寄せてみたが、その時も何の物音もしなかった。きっと、気配すら感じさせないほど眠り込んでいるに違いない。そんなシュテファンの部屋の前で………私ったら、何をやってるの?
 心の中では、お母さんが眠っている子供にそうするように、ただ様子を見ておきたいんだとか、さっきは、おやすみなさいも云わないで部屋へ追いこんじゃったから、もし彼が起きていれば寝る前の挨拶がしたいだけだとか、もっともらしい理由がぐるぐるとまわっている。
 しかし………本当は、それだけが動機ではないことなど、嫌というほどわかっている。
 はあっと激しい溜息が洩れた。
 バカバカバカ。星螺のバカ。
 ヘレナだったら「イケ!」って云うのかもしれないけど………やっぱり私に、そんな度胸ないよ。
 第一、眠っている人を起こすなんて! そんな失礼なことをすれば、きっと後味が悪いに決まってる。ここは、大人しく眠りに行こう。うん。だって、明日も明後日も、まだここに泊まるんだもの。今を逃したら一生後悔することになるとか、そういう話じゃないし………。
 ここまで考えて、星螺もようやく気持ちの整理がついた。
(そうだ、寝よ寝よ。それに万一、こんなところを本当にシュテファンに見られたりしたら、絶対ドン引きされちゃうもん。そんなのイヤだ)
 足音を立てないように気をつけて数歩下がり、自分の寝室のドアノブに手を掛ける。
 その時、ガチャリと玄関の鍵が開錠される音がした。
 反射的に体が硬直する。
 開いたドアの敷居に立つ人を見て、星螺は危うく悲鳴を上げるところだった。
「………シュテファン?」
 きっと、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしていたに違いない。
 ――――――なんで?
 なんで、一時間以上も前に眠りに就いた筈の人が、外から帰ってくるの?
「………まだ、起きてたんだ」
 シュテファンも一瞬、やはり唖然とした面持ちでセーラを見つめたが、すぐにいつもの落ち着いた態度に戻って、静かにドアを施錠した。
「いえ、あの、私、その………今から、ね、寝ようと思って」
「そう」
 驚いたのと恥ずかしいのとでしどろもどろになっている星螺に対し、シュテファンの声は冷たく感じられるほどあっさりしている。
「――――――貴方も、もう休む?」
 思わず、言葉が出る。
 星螺の目の前を通り過ぎようとしていたシュテファンは、一瞬、足を停めた。
「――――――………うん。疲れたからね」
 笑んで星螺を見下ろす。
 それは確かに、いつもの彼の笑顔だった。けれど………どこかぎこちない。
 なんだか、悪戯しているところを親に見つかった子供のような………。
「おやすみ」
 彼は視線を逸らし、足早に通り過ぎる。
 その時、星螺の鼻先を嗅ぎなれない匂いがふわりと掠めた。
「………おやすみなさい」
 彼女がそう口にした時、すでにシュテファンの姿はドアの向こうへ消えていた。



「遅かったな」
 そっとドアを閉めたと同時に、暗い部屋の奥から聞きなれた低声(バリトン)が浮かび上がった。
 ホテルの最上階にある、特別のスイートルーム。
 入口からまっすぐのびた廊下の突き当たりにある、広すぎるほどのリビングは、外へ向かった一面がガラス張りになっていて、明るければ眼下に紺碧の海原を一望できる贅沢な造りだ。今は、仄かな街の灯りと、水平線から顔を出したばかりの月が、神秘的な一枚の絵画のような情景をつくっている。
 そこに寄りかかるようにして黒い人影が佇んでいるのを、杏珠はようやく暗がりに慣れてき眸でみとめた。
「ごめんなさい。実は、道に迷っちゃって………」
「お前は本当によく迷子になるな」
 カラン、と男の持つグラスの中で、氷が傾く音がした。
 ソファやテーブルにぶつからないよう気をつけながら、彼のすぐ傍へ寄る。
「………迷子だけなら、よかったんだけどね。帰り路に………」
「男に襲われでもしたか」
「なんで知ってるの」
 杏珠は思わず、彼の顔を見上げた。
 しかし、照明の落ちた部屋の中では、その表情を読み取るのは難しい。
「俺は何も知らん。………なんだ、本当に襲われたのか」
 男は初めて隣の女を一瞥したが、特に心配しているふうではない。
「本当よ。すごく、怖かったんだから………」
 杏珠はいささか心寂しくなった。
 彼のこんな性格は、ある程度知ってはいるつもりだけれど、やはり、わだかまりを覚える。
「――――――………イリアの、ばか」
 つい、唇から呟きが漏れた。
「――――――それで、どうなった」
 そのまま杏珠が黙り込んでいると、イリアが低く囁いた。
 心なしか、少し優しい声になったような気がする。
「………人が来て、助けてくれたの。襲ってきた男も何もしないですぐ逃げて行っちゃった。すっごくいい人だったんだよ。生粋のジェントルマンって感じで。ここまで送ってくれたし」
「ほう………それは是非、俺のライバルとして、ブラックリストに加えておかなきゃならんな」
「んもう、普通御礼するところでしょ!」
 ――――――………どうやらこの娘(こ)は、それが誰だったのか気づいていないらしいな。
 適当な言葉であしらいながら、イリアの片眼は、ガラス越しに遥か眼下の地上を歩いていく、一人の男の姿を捉えていた。普通の人間の視力ではとうてい顔の判別などできないこの距離でも、彼の血のように赤い眸は、その男が杏珠をホテルまで送り届けてきた時、すでにそれが何者であるか見てとっていたのだ。
 ………礼、か。
 心の中で苦笑し、イリアは琥珀色の液体が入ったグラスに口付けた。




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