神父たちのバカンス事情



2

“――――――………シュテファン………――――――”
 誰かが呼んでいる。
 か細く震える、小さな声………それでも、まっすぐ耳に届く声。
「………う…ん………――――――」
 寝返りを打つ。太腿や腕に、まっさらなシーツの感触が生々しい。
“――――――………シュテファン………シュテファン”
 まるで啜り泣いているような、胸を締め付けられるような呼び方。
 同時に、柔らかくて温かな何かがそっと頬に触れる。
 うっすら瞼を開けると、目の前に誰かの顔があった。
 口付けせんばかりに近い距離から、涙で潤んだ榛色の眸が、悩ましげに見つめている。
 長く黒い髪が肩から垂れて、シュテファンの顔にもまつわる。
(………セーラ?)
 まだ、目が醒めきっていないからだろうか。驚くよりもその切なげな表情に胸がつまって、シュテファンは仰向けのまま、自然と頬に触れる彼女の手をとっていた。
“シュテファン………………”
 石榴のように赤い、ふっくらとした唇が動く。
 こんな切なげに、悩ましい声で自分の名が呼ばれたことが、今までにあったろうか。
 セーラ………、セーラ、セーラ。
 だめだよ。
 そんなふうに呼ばれたら………そんなふうに見つめられたら………俺は――――――。
 息が上がっている。
 体が熱い。
 胸の奥底から何かが突き上げてくる。
 ふと、視界からセーラの顔が消えた。代わりに柔らかい感触が首筋にあたって、シュテファンは思わず声をあげそうになる。
“シュテファン………お願いがあるの………――――――”
 耳朶に吐息がかかる。セーラの息遣いもどこか忙しない。
 まるで熱に浮かされたように視界がぼやけている。
 セーラは、両腕でシュテファンの頭を包むようにして胸を密着させ、更に唇を耳許へ寄せる。
“お願い………たった一度だけでいいから、――――――………――――――”
 囁かれた最後の言葉を聞き取るよりも先に、シュテファンは彼女の身体を抱きしめた。

「………?――――――」
 突然、世界が真っ白になったような気がした。
 同時に、確かに五感全部で感じとっていた身体の重みも、熱さも、吐息も、すべてが消える。
 差し込んでくる朝日に照らされたモスリンのカーテン。部屋の隅に鎮座する小さな木製のタンス。微かに届く波の音。カモメたちの鳴き声。潮の香り………。
 きつく閉じていた両腕をおもむろに解くと、セーラの代わりに、くしゃくしゃになった枕が胸の上に乗っかっていた。
(――――――夢………だったのか)
 なんてこった。
 ようやく普段の意識が戻った頭で、シュテファンは深いため息をついた。
 ゆうべペンションへ帰って来てみると、とうに眠ったと思っていたセーラと鉢合わせをして驚いたっけ。本当は驚くことなんて何もないはずなのだが、なぜかひどくどぎまぎしてしまった。そして、寝床に潜り込んだはいいものの、直前まのあたりにしたセーラのくつろいだ寝間着姿が目にちらついて、なかなか寝付けないまま、寝返りを打ってばかりいたんだった。
 しかし、やはりセーラが心配していたとおり、実際かなり疲れていたのかもしれない。いつのまにか寝込んでしまったようだ。
“たった一度だけでいいから………………”
 夢の中のセーラの言葉が耳に蘇る。
 たった一度だけ――――――彼女は、俺にどうしろと云いたかったのだろう。
 その言葉の先を想像しようとして、シュテファンは激しく頭を振った。
 バカな。夢は夢でしかない。
 ほんとにもう………昨夜のことといい、俺はいったいどうしちまったんだ?
 眼鏡と一緒にナイトテーブルに置いておいた携帯を見ると、デジタル数字が朝の七時を示していた。さっき見た夢のせいか、体中じっとりと汗ばんでいて気味が悪い。
 シュテファンは一度横になったまま伸びをすると、反動をつけてベッドに起きあがった。昨夜は遅かったから、セーラはまだ眠っているだろう。その間にシャワーを浴びてしまおうと思った。
 そのまま、扉の向うの様子に気を配ることもなく、部屋を出る。
 しかし――――――次の瞬間、シュテファンは戸口の敷居で、凍ったように立ちすくんでいた。
「あら、もう起きたの?」
 シュテファンの部屋のまん前に設えられた、小さなキッチン。
 戸棚からカップを取り出していた人が、長い髪を揺らして振り向いた。
 さっきまで、夢の中で間近に見つめていたのと同じ顔。
「おはよう、シュテファン」
 挨拶を返すこともできず、シュテファンは彼女の姿に見入っていた。
 まだ眠っているものとばかり思ったのに、セーラはすっかり身支度を整えていた。蝶の柄があしらわれた黒地のキャミソールに、デニムのショートパンツという出で立ちは、彼女を年よりもずっと若く見せる。十代の学生だと云っても通るだろう。
「………早いんだね。まだ、七時になったばかりなのに」
 やっと、唇におざなりの微笑が浮かび、言葉を紡ぐ。
「そう? いつも、起きるのこれくらいだけど………」
 榛色の眸をこちらに向けることなく、セーラはプレートや皿を取り出しながら答える。朝食の用意をしてくれているらしいことに、シュテファンは今さら気がついた。
「――――――シュテファン」
 しばしの沈黙の後、セーラが、こちらをチラッと一瞥して声を掛ける。
「シャワー使うんだったら、バスルーム空いてるわよ」
 その時になってようやく、シュテファンは自分が今、眠りについた時の下着姿のままでいたことを思い出して、慌ててバスルームへ駆けこんだ。とんでもない格好を見られてしまった戸惑いや羞恥心と、夢の記憶、それに今さっき目に入った、彼女の露わになった胸元や腿の残像が相まって、顔全体が火照っている。
 ――――――俺は、アホか。
 勢いよくコックを捻る。
 冷たい水を頭から浴びながら、ふと、シュテファンは今朝のセーラの態度に違和感を覚えた。
 何がどうとは云えない。ただ、笑顔も声音もどこかぎこちなくて、素っ気なかった。つい自分の感情にばかり気を取られていたが、なんだか、いつもの彼女と違うような気がする。
 ――――――俺の気の所為なら、いいんだが。
 一抹の不安にも似た予感が、五十の坂を越えた神父の胸を掠めていた。



 公営ビーチの片隅で白い砂に寝転がっていた男は、サングラス越しに、目の前を通り過ぎるとある男女のカップルをみとめて、ふっと幽かな笑いを漏らした。
 その男は、もう朝から長いことこの同じ場所で、あたかも彫刻のように寝そべったままでいたのだが、特に気にする者もいない。みな、空と海の織りなす美しい青い世界の中で、めいめいのバカンスを楽しんでいる。じゃれあって水しぶきをあげるアベック。浜辺で砂の城をつくる子供たち。そして、この男と同じく思い思いの場所で横になって、日光浴をする者は多いから、彼もこの情景の中に見事に溶け込んでいた。
 それでも時々、周囲の女性たちが秘かな熱い眼差しを送っているのは、ちょっとやそこらでは見かけないほど美しいその容貌のためだ。
 広い額に、漆黒の髪が一房垂れている。髪と同じ色の美しい口髭に縁取られた唇は薄く、筋の通った鼻はギリシャ彫刻のようだ。目もとの感じだけはサングラスのためにわからないが、惜しげもなく露わにされている、日に灼けて小麦色に輝く全身の肌や、引き締まった見事なプロポーション。一見して二十代や三十代でないとわかるだけの、壮年期特有の堂々とした雰囲気とともに、その男の存在自体からは、どこか野性的で危険な色香すら漂っている。
 ――――――ようやく、やってきた。
 満足げな笑みを浮かべて、男は脇においてあったボトルに口をつけた。
 あのカップルはそれほど遠くないところで立ち止まり、肩を寄せるようにして海を眺めながら何か話し合っている。海風が二人の髪をなびかせて、まるで一枚の絵のようだ。
 男は寝そべったまま、特に女のほうの姿を舐めるように見つめた。
 背の中ほどまである髪は、茶がかった黒。青い花柄のプリントされたオレンジ色のセパレーツの水着から、肌理の細かい白い四肢が剥き出しになっている。遠目にもわかる大きな双眸。一目でインドヨーロッパ系とは云い切れないとわかる、独特の貌立ち。
 ――――――それは確かに、きのう悩ましげな眼差しで空を見上げていた女に間違いなかった。
 相手の男のほうは、確かめるまでもない。
 ウェーブのかかったくすんだ金髪も、黒ぶち眼鏡の奥にある青緑色の眸も、よく知っているものだ。
(まったく………お前も隅に置けないな、シュテファン)
 男の鋭い眼差しが、二人を射る。
(――――――せいぜい、今の内に楽しんでおくがいい………)



 白い砂浜に立ちつくして、星螺はぼんやりと空を眺めていた。
 踝を撫でるように引いては返す波の感触が、ひんやりと心地いい。
 星螺が最後にこうして海水に足を洗ったのは、もう十年近く前のことだったろうか。あれは、日本の生まれ故郷に近い、太平洋に面した浜辺だった。ここは日本でもないし、目の前に広がる海原は太平洋でもないけれど、潮の香りも、足の指が砂に埋まっていく感触も同じで、懐かしい。
 ――――――それなのに………素直に楽しめない。
 せっかく、大好きな人と………こんなステキな場所にいるのに。
 振り返ってみるが、シュテファンの姿はまだ見えない。
「………――――――」
 星螺は微かに嘆息すると、再び眼差しを空のほうへ向けた。
 ロマンティックなシチュエーションとは裏腹に、気持ちは時間が経つほど沈んでいくようだった。

 ――――――昨夜、真夜中も過ぎた頃になって、思いがけず外から宿へ帰って来たシュテファン。
 目の前を通りすぎた時に鼻を掠めた甘い香りは、芳香剤とデオドラントの匂いの雑じった、いつも嗅ぎ慣れている彼の体臭とは、明らかに違っていた。
 あれは………婦人用化粧品の匂いだった。
 そして自分をみとめた時、彼が隠しきれなかった戸惑いと、ぎこちない笑み………――――――。
(シュテファンは、女の人と逢っていたのではないか………――――――?)
 床に就いた時、ふと、そんな考えが脳裏に浮かんだ。
 あの匂いは本当にたった一瞬、ほんの幽かに感じられただけだったが、あんなふうに香りが移るためには、シュテファンはその匂いの元とそうとう密着しなければならない。つまりもし仮に、あれが婦人用化粧品の匂いに間違いないとすると、その化粧品を使う女性と彼とは、少なくとも一度は抱きあうようなことがあったはずなのだ。
 もちろん、すべては気の所為だったのかもしれない。それでも、不意に襲いかかって来た疑念は、一晩中星螺の心を蝕みつづけた。何度も、何度も寝返りを打ちながら、彼女の頭の中で、唐突にこの旅に誘われたことや、シュテファンの疲れきったというよりぎこちない様子などの記憶が、とりとめなく流れた。
 ………そういえば、彼はもう何度もこの町へ来たことがあるかのような口ぶりだった。こんなステキで手頃な宿を知っていることといい、散歩の時も、地図も見ないのに勝手知ったようにサクサク歩いていたことといい、初めてではないのは確かだろう。
 シュテファンは、神父のくせに決してキャソックを着ない。雰囲気も聖職者というよりは芸術家のそれに近いし、柔和で人懐こい笑顔や丁寧な物腰、整った顔立ちのお蔭で女性受けもいい。おまけに以前、心臓の治療のために温泉地へ赴いていた彼が、敢えて自分の職業は人に話さないのだと笑って話していたことも思い出されると、どこかで逆ナンパされていたとしてもおかしくは思えなかった。そう、たとえば………ひょっとして………バールなんかでお酒でも飲んでいて、そこのお姉さんに抱きつかれちゃったとか?
 しかし、夜の暗闇も手伝って星螺の疑念はとめどなく膨れ上がった。誰かと一夜限りの関係を持ったのではないかとか、昔の恋人と再会したのかもしれないとか、自分と一緒にいるのが厭で遊びに出たのだろうかとか、挙句には、ひょっとして彼は毎年、誰か特定の女性と逢引するためにここへ通っているに違いないとか、妄想の方向性はネガティブを極めた。もともと彼との関係が曖昧なことや、女性としての自信のなさもそれを助長したのかもしれない。
 そんなこんなで、結局、星螺は一睡もできないままに夜明けを迎えた。
 朝、顔を合わせると、昨夜のぎこちなさが嘘のように、シュテファンはいつもと変わらぬ優しい態度だった。しかし、それがなぜかひどく気に触って、星螺の感情はささくれ立った。それを知ってか知らずかシュテファンもよけい優しく気遣ってくれるのだが、どうしても表情が曇ってしまう。そして、こんなふうに気持ちを持て余している自分が情けなくて、更に神経が尖る。完全な悪循環だ。
 朝食の後、「泳ぎに行こうか」と誘ったのはシュテファンだった。
 海辺へバカンスに来たのだから、もちろん、水着やビーチサンダルなどは用意してある。
 これがきのうのことだったら、星螺も、肌の露出が高い水着姿を好きな異性に見られることに、単に娘らしい羞恥心からくる躊躇いや戸惑いを感じるだけだったろう。しかしもう、心のどこかにかたまってしまった“シュテファンに化粧品の匂いが移るほど密着した女性”の存在が、ただでさえ彼女に欠けている己の身体への自信を削ぎ、心持を卑屈にねじまげてしまっていた。
 一時期水難救助隊に入隊して鍛えていたためか、年齢を感じさせないほど張りのあるシュテファンの露わになった上半身を目の当たりにしても、素直にときめきを覚えることすらできなかった。………否、本当は心臓が狂いそうに鼓動を高めるくらい、星螺にとっては男性らしい色気を感じさせる艶めかしい姿だったのだけれど、(所詮、この胸に抱かれることなんてない………)などと心の中で囁く悪魔がいて、余計に直視できなかったのだ。
 それでも、星螺はつとめて普段どおりに振舞おうとした。
 自分たちは友人同士であって、恋人ではない。お互いに自由であり、いつ、どこで誰と何をしていようと、干渉したり束縛したりするのはお門違いなのだ。そう無理矢理云い聞かせた。
 それに、この日のために用意されたかのような快晴の空と、その色を映した大海原に抱かれたビーチを見たら、その美しさに感動し、来たことを素直に嬉しく思うことができた。しばらくの間は子供みたいに無邪気に遊んだ。シュテファンも楽しそうだった。
 しかし、飲み物を用意していなかったことに気づいて、「僕が何か買ってくるから」とシュテファンがビーチを去ってから、星螺の気持ちは再び暗くなっていった。

「………………」
 あれから、十五分ほど経ったろうか。
 とりあえずいくらあたりを見回しても、彼の姿はビーチのどこにも見当たらない。
 ………まさか、また、きのうの女の人と会っているのでは。
 無意識に自虐的な妄想をしている自分に気づいて、星螺はハッと息を呑んだ。
「――――――私ったら………」
 嘆息して額に手をあてた、その時だった。
「Ciao, bella!(ハイ、かわいこちゃん)」
 突然、至近距離から声がした。
 反射的に振り向いて、すぐ目の前に二人の若者の姿をみとめても、それが自分に対して掛けられた言葉と星螺は咄嗟にはわからなかった。しかし、彼らは不思議な輝きを持った目でこちらを見つめながら、何か早口に喋っている。
「あの………私、イタリア語はわからないんです。なんのご用でしょう」
 星螺は、不自然なくらいプライベートゾーンへ食い込んでくる二人を両手で制しつつ、戸惑いながらも英語で丁寧に応じてみたが、彼らはそれに対して笑い声を上げただけだった。そして、一人が片手で誘うようなジェスチャーを繰り返し、もう一人が星螺の肩に手をかけた時、ようやく緊張に身体が強張った。
 街角で異性にナンパされるような経験など皆無だった星螺は、まさか自分がこういう場所で声をかけられる対象になるとは、夢にも思っていなかった。だから、心も体もまったく不用心で無防備な状態になっていたのだ。
 ――――――しまった。私としたことが………!
「ちょっと待って………連れがいますから」
 慌てて強めの口調で云いながら、男たちの手を振りほどくために後退しようとしたが、二人には英語が通じていないのか、端からこちらの意志などお構いなしなのか、次々と、星螺の動きを封じるように肩や腕に手をかけてくる。
「ノー、ノー!」
 必死の叫び声も、若者たちの大きな声に掻き消えてしまう。
 体格のいい男二人に挟まれるようにして、自分一人の力では、とても逃げられそうにない。
(いや、助けて………シュテファン!)
 星螺が心の中でそう叫んだのと、ふいに体が自由になったのとは、ほとんど同時だった。
 耳元で、誰かが何かイタリア語で云っているのが聞こえた。
 それは明らかに、目の前に立つ若者たちの口から出たものではない。
 二人はいささか呆然として、星螺の少し背後を見つめていたが、すぐにつまらなそうな舌打ちを洩らすと、ついっと踵を返して去って行ってしまった。呆気にとられてそれを見送る星螺の足を、寄せては返す海の波が、何事もなかったかのように相変わらず洗いつづけている。
「――――――間に合ってよかった」
 さっきと同じ声が聞こえた時、星螺は初めて、自分の肩が何者かの腕に抱かれているのに気がついた。そういえば、脇腹にも、腰や脚にも誰かの体温が直に伝わって、仄かで煽情的なオーデコロンの匂いまでもが、自分の全身を包みこんでいるかのように感じられる。
「しかし彼らは別に、貴女に危害を加えようとしていたわけではありません」
 明らかにシュテファンのそれとは違う、深く低い男の声が、すぐ耳元で囁いている。
「女性がたった独りでいると見れば、ナンパは礼儀と弁えるこの国でなくても、男は声をかけたくなるものです。若くて美しい女性は、特に用心しなければいけませんよ」
 首筋にかかる微かな吐息に、星螺は一瞬びくりと身体を震わせた。
 しかし、さっきの若者たちより密に身体に触れられているというのに、戸惑いや嫌悪感を覚える余裕がなかった。男が英語でもイタリア語でもなく、当たり前のように、星螺にとっては第二の母国語である言葉で話しかけてきたことによる衝撃が、すべての感覚を奪っていた。
「あの………貴方は………――――――?」
「おお、これは失礼」
 腕が解かれ、星螺はようやく相手の顔を仰いだ。
 オールバックにされた漆黒の髪が、一筋だけ、広い額に垂れかかっている。すっきりと筋の通った鼻。いくらか角ばっている顎。美しい口髭に縁取られた、薄い唇。小麦色の肌。
 星螺は思わず眉根を寄せた。まったく見知らぬ男性に思えた。
 そんな彼女の反応を見て、男は微かな笑みを浮かべた。そして、太陽の輝きを眩しく映していたサングラスを、おもむろに取り去った。
 すると、こちらを射抜くような鋭い眼光を湛えた灰色の眸が露わになる。
 星螺ははっと息を呑んだ。
 この眸……。
 何年経とうと、忘れられるわけがない。
 でも、まさか。
「ロベルト・イラーセク神父………」
 星螺の喉から絞り出すような、掠れた呟きが漏れた。



 海水着の上にシャツを羽織っただけのシュテファンは、ビーチへの道を大股に歩いていた。
 思いがけないことに、浴場からもっとも近いキヨスクは改修工事で閉まっていたため、十分ほど別の店を探して歩きまわる羽目になってしまった。ようやく手に入れた飲み物のペットボトルを二本小脇に抱えて、彼は元来た道を黙々と歩いた。
 歩きながら、自分の年若い連れのことを、とりとめなく考えていた。
 朝から、なんとなく彼女に感じていた違和感は、なかなか消えようとしなかった。消えないばかりか、時間が経つにつれて確かなものになっていくようだった。
 表面上、セーラはいつもと変わらないふうに振舞っていた。ともに朝食を摂っていても、海に場所を移しても、笑顔を絶やさず、気配りを怠らなかった。
 それでも、彼女が心に何らかのわだかまりを抱いているのが、シュテファンには痛いほど感じられた。無理にいつもどおりの態度を崩さずにいるのが、微笑みの向うに透けて見えるようだった。それは、無意識のうちに洩らしている重い吐息とか、時折額の上に差す翳とかといった形で表に顕れていた。
 ――――――いったい、どうしたというのだろう?
 この変化は、明らかに昨夜から今朝までの間に起きたものに違いなかった。シュテファンも自分の感情を制御するのに必死で、しっかりとセーラの状態に心を配れていたわけではなかったかもしれないが、少なくともきのうのうちは、彼女の様子に何か変わったものは特別感じられなかったはずだ。
 ………となると、やはり、昨夜遅く自分が宿泊先に戻って鉢合わせした時か、その前後に何かあったのだろうか。
 しかしいくら考えてみても、シュテファンには、セーラのいつになく棘の立った雰囲気の理由が、皆目見当もつかなかった。それも勘違いでなければ、そのささくれ立った気持ちは、どうやら自分に向けられているもののようだ。
 こんなセーラは初めてだった。
 それが予想以上に自分の心を乱していることにも、シュテファンは戸惑っていた。飲み物を買うためにビーチを離れたのも、心の奥底に、ささくれだったものを持つセーラを見ていたくないような、不思議な気持ちがはたらいていたような気すらするのだ。
 それでも、シュテファンの足運びは無意識のうちに忙しなくなっていた。
 たった独り、公共のビーチに残してきたセーラのことが気がかりだった。彼女が、人に待たされて不平や小言を云うような女性でないことは、シュテファン自身も今までの付き合いでよくわかっていたが、むしろだからこそ、早くそばに戻ってやりたい思いだった。
 それに、………なんと云ったらいいのか、今のところ当のシュテファンにもわからないのだが、今朝から同もおかしな胸騒ぎがしている。何か、自分やセーラの身の上に起ろうとしているような………漠然とした不安を感じるのだ。
 だからなおのこと、一刻も早く彼女の許へ帰りたかった。

 やっと、白い砂浜と碧い海が姿を現わしているのが、向うに見えるようになった時だった。
 ふと、シュテファンは何かの気配を感じた。
 誰かが自分に対して、何らかの心持ちを抱いている気配である。思わず足を停めて辺りを見回してみたが、それらしい人影はどこにも見当たらない。
 しかし確かに、何者かが自分の存在に注意している。
 再びゆっくりと足を踏み出しながら、シュテファンはその根源を探った。
 場所はすぐわかった。およそ十メートルほど先にある建物の陰………あそこに誰かが潜んでいる。
 敢えてそれに気づかぬふうに、シュテファンはそのまままっすぐと歩を進めていった。
 足を運ぶたびに、どんどんその距離は近づいていく。近づいてくほど、気配は濃厚になる。シュテファンはふと訝しく思った。姿は見せていないものの、相手は自分の気配を微塵も隠そうとしていないのだ。まるでシュテファンに己の存在を知らしめようとするかのような、不思議な自己主張をもつ堂々とした気配だ。
 とうとう、シュテファンはその源とすれ違った。
 どこにも人影はない。
 そのまま通り過ぎようとする。
「――――――………シュテファン・シヴァビンスキーさんですな」
 背後から、よく通る低い声にこう呼びとめられた時、シュテファンは一瞬、自分がさっきからこのことを予感していたかのような錯覚に陥った。
 足を停めて、ゆっくりと振り返る。
 声の主は、思いがけないほどすぐ傍に立っていた。シュテファンでも見上げるほど長身の男性である。まるで、どこからともなく突然その場に姿を見せたかのような出現だった。
 最初に目に飛び込んできたのは、踝にまで届きそうなほど長い頭髪だった。それは黄金というに相応しく、見事な輝きを放っている。顔や首筋に見えている肌は、金髪を持つ者には珍しい褐色で、日に灼けたためのものではなさそうだった。身体にぴったりと張り付く黒いシャツとズボンが、男の目にも美しい均整のとれたしなやかなボディラインを強調している。
 そして、男が全身から放っている気配は、明らかにシュテファンが感じ取っていたものだった。
「このような場所でお呼びとめして申し訳ないが………私を、ご記憶だろうか」
 相手は、サングラス越しにもわかるほど鋭い眼差しを、じっとこちらに当ててこう問った。
 シュテファンは思わず眉を寄せた。実は先ほどから、この気配には覚えがあるという気がしていた。だのに、相手の異様な印象を与える姿を目の当たりにしても、咄嗟には思い出せない。
 男はそんな相手の反応を見ると、吐息とも笑い声ともつかないものを喉から洩らして、かけていたサングラスを取り去った。黒いグラスの向こうから、白い包帯に覆われた顔の片側と、血のように赤い片目が露わになる。
 その眸を見た瞬間、シュテファンの頭の中を閃光が走った。
「貴方は、確か………いつだったか、ヴァチカンでお逢いした………」
「そのとおり。イリアという者です」
 そうだ、間違いない。この男は、数年前に星螺を伴ってローマへ行った時に出逢った司祭だ。
 たった一言挨拶を交わしたに過ぎない相手だったが、その特殊な容貌と身にまとった不思議な気配は、とうてい忘れられるようなものではない。
 しかし、なぜヴァチカン勤めの神父が、こんなところにいるのだろう?
 しかも一体なんの用があって、自分などに声をかけたのだろうか?
「――――――昨夜は、私の連れがたいへん世話になったと伺いました」
 シュテファンの疑問を見透かしたように、イリアと名乗る男は口を開いた。………考えてみれば彼の名を聞いたのは、今日が初めてのことだ。
「連れ、といいますと?」
「アンジュという娘です。確か貴方も、彼女とはヴァチカンでお逢いになっているはずだが」
 あっとシュテファンは声を上げた。当時の記憶が鮮やかに甦る。
 レストランでセーラと楽しそうに語らっていた若い女性………その面影に、昨夜、ひょんなことから関わりあった女性の顔が重なった。なるほど、道理で見覚えがあると思ったはずだ。
「そうでしたか、あの娘さんが………」
 シュテファンの胸を感慨深いものが押し包んだ。
 云われてみれば「アンジュ」という名前も、セーラの口から幾度か聞いた覚えがある。ヴァチカンでの邂逅以来、ふたりの娘はささやかな友情を育んでいるらしく、昨年の春には、何かのついでに渡欧していたアンジュがセーラを訪ねに来たこともあったそうだ。
 もともと交友関係も広くなく、親しい友人の少ないセーラにそんな友達ができたことを、シュテファンも内心では純粋に喜んでいたし、「アンジュ」という名の女性に対して、不思議な親近感すら抱いていたのだ。
 しかし、偶然関わりあったあの女性が、当のアンジュ本人だったとは――――――。
「何があったのか、本人からだいたい聞きました。大事にならずに済んだのも貴方のお蔭だ。アンジュ自身はもとより私も、心から感謝しております」
 そう云いながら、イリアはシュテファンに微笑みかけた。
 絵に描いたように美しい微笑だった。しかし、赤い眸は相変わらずこちらをじっと見つめていて、本人にそのつもりはないのだろうが、底なしの血の海を思わせるそれは、視線の先にある対象をすべて吸い込んでしまいそうな、恐ろしい力を感じさせる。まともに目を合わせたら、少しでも気持ちの小さな人間であれば、萎縮して声も出なくなってしまいそうだ。
 これに対し、シュテファンも柔らかな笑みを返した。
 彼特有のこの微笑はシュテファンの大きな魅力のひとつでもあるが、同時に、相手や状況を問わず用いることができて、内面の感情をすっかり隠し覆ってしまえるという優れものでもある。
「どういたしまして。特に大したことはしていませんが」
「それにしても、二年前にたった一度、行きずりで逢っただけの貴方と、こんな思いがけない場所で再会するのも何かの縁だ」
 イリアがつづける。
 彼の声は、最初から変わらない低く落ち着いたもので、口調や言葉遣いこそ丁寧で穏やかだが、どこか、相手を有無を言わさず従わせてしまいそうな威圧的な響きがある。
「せっかくの機会です。実は、今晩の食事をご一緒できればと思ったのだが………」
「………食事、ですか」
 思いがけない申し出に、さすがのシュテファンも戸惑った。
 不審げに眉を寄せた相手を見て、イリアも苦笑する。
「いや、突然お誘いなどして、ご迷惑に思われても致し方ありません。しかし、やはりあらためて昨夜の貴方のご助力に対する御礼として、せめてものおもてなしをさせて頂きたいという気持ちがあるのです。それに………」
 口元は笑んでも決して表情を変えなかった眸に、微かな輝きが増した。
「連れから洩れ聞いたところによると、初めてお目にかかった折に貴方がお連れになっていた女性とは、アンジュも特に親しくさせて頂いているとか。………確か、セーラさんと仰いましたね」
「………………」
「彼女からその女性や貴方の話を聞くにつけて、つねづね、お近づきになれるような機会があればなどと思っていたのですよ。………私と貴方には、重なる点もあるようですしな」



 星螺は呆然と、ここにいるはずのない目の前の人物を見つめつづけていた。
 ――――――ロベルト・イラーセク。
 十年も前、星螺が通っていたミッション系オルガン学校専属司祭を務めていた神父である。
 その美貌と丁寧優美な物腰、ユーモアとウィットに富んだ話術とで、教授連や学生たちばかりか町の多くの人々の心を掌握していた男………また、裏では巧妙なレトリックとコネクションを用いて敵を陥れる、イアーゴーにも似た狡猾な策士。直接話を聞いたわけではないものの、シュテファンが度々、彼の用意した裏工作のために苦汁を舐めていたことを星螺も知っている。
 ………そして、男子学生を次々と泥酔させては的な暴行を加えたとして、学校を秘かに辞任させられたという噂をもつ男………――――――。
 そんな記憶が瞬く間に頭の中を駆け巡った。
 何よりも、思わぬ場所で想像もしない相手に出逢った衝撃に、思考が止まってしまっている。
 彼と逢ったのは、星螺が学校を退学する直前が最後だったから、十年はまともに顔を合わせていなかったことになるのだが、その印象はまるで変わっていない。しかも、頭以外を黒地の布で覆い隠す僧服(キャソック)ではなく、局部以外すっかり露わにされた全身は海水に濡れて、男性の裸体など見慣れない星螺の目には刺激が強すぎるほど艶かしかった。
 彼女が相手を見つめている間、ロベルト神父のほうも、ひとことも言葉を発しないまま鋭い眼差しをこちらへ注いでいた。この眼が恐ろしくて、学生時代、星螺は決してこの神父とまともに目を合わせようとしなかったのだが、今は食い入るように見つめ合ってしまっている。一度こうして眼差しを交わしてしまうと、とてもこちらから逸らせないようなものを、相手の眸は宿していた。
 ――――――どれくらいそうしていただろうか。
 不意に、神父が口元をほころばせた。
「やっぱり、貴女でしたか」
 明るい声音だった。心なしか目もとにも優しいものが浮かんでいる。さきほどまでの恐ろしいほど野性的な印象とはまるで違う柔らかな表情だ。
「かつて僕の教え子だった、セーラさんでしょう? 確か、お母様が日本の方だった」
「――――――………まあ」
 星螺は驚きを隠せなかった。数多い学生の中の一人を、しかも、十年も顔を合わすことのなかった少女のことが、この男の記憶に残っていようなどとは夢にも思っていなかった。
「よく憶えていらっしゃいますのね」
「貴女のことは、とても印象に残っていましたから」
 にこにこしたまま神父は云う。
「いや、実はさっきから、似ているなあと思って見ていたのですよ。こうして間近でお顔を拝見しなければ、確信は持てなかったが………」
 “さっきから”………――――――?
 その言葉に、星螺ははっと緊張した。
 さっきからというのは、いったいいつからのことだろう。もしかして、シュテファンと一緒にいるところも見られていたのだろうか?
 この男にとって、その後釜に座る形となったシュテファンは邪魔な存在らしかった。おまけに、神学を学んでいた大学時代は先輩、後輩の関係にあったという二人の間には、その頃から何か因縁めいたものがつきまとっているような印象すらある。
 そんな男に、やはり聖職にあるシュテファンが、こんな場所で若い異性と過ごしているのを見咎められれば、その事実をどんな工作に用いられるかわからない――――――!
 身構えている星螺をよそに、神父は屈託ない様子で話しつづけた。
「貴女があの学校に在学していた頃というと………十年前になるのかな。早いものですな、時間が経つのは。私もあれからほどなくして、教職を離れてしまったが――――――」
 星螺を見つめる灰色の眸に、ふと妖しげな光が宿った。
「しかし、お美しくなられた」
 パッと頬が熱くなって、星螺は俯いてしまった。
 思わぬ相手に、思わぬタイミングでこんなことを云われて、どうしたらいいかわからない。
「さっきの彼らのことですが………」
 星螺の戸惑いなどまるで気付かないふうに、ロベルト神父はつと視線を他へ移した。
「本当にあまり気にしないほうがいい。慣れていなかったなら貴女には多少恐ろしかったかもしれないが、別に乱暴しようとしていたわけではないのです。さきほども申し上げたが、美しい女性が独りでいれば、とにかくちょっかいを出すのが一種のしきたりのようなものでしてね」
 ここで言葉を切ると、彼はまるでその時になってふと気付いたかのように、再び眼差しを星螺にあてた。
「そういえば、ここへはお独りで? 誰も連れの方はいないようだったが」
 この言葉でようやく、神父が今のところシュテファンの存在に気づいていないという確信を得て、星螺はほっと胸を撫でおろした。
 しかし、安堵してばかりもいられない。
 シュテファンは今にもここへ戻ってくるかもしれないのだ。それまでに、なんとかしてこの男から離れなくてはならない。そして、ここにロベルト神父がいるとわかった以上、一刻も早くシュテファン共々ビーチから撤退するべきだ。
「いえ、あの………その――――――」
 星螺は答えようとして、焦燥感に胸の奥がカッと熱くなった。
 なんて答えればいいのだろう。
 とりあえず、ロベルトの自分への態度はとても紳士的だ。理由はどうあれ、困ったところを助けてくれたのも事実である。しかし、だからといって気を許してしまってよい男ではない。十年前の様々な記憶が、星螺の心を警戒心で塗り固めている。
 だけど、咄嗟にうまい云い訳など思いつかない。
「そういえば、お顔の色がすぐれませんな」
 ハッと我に返ると、神父がいつの間にかこちらに踏み込んできている。
 ………距離が、近い。
 いや、本当は服さえ着ていればそれほどおかしな距離でもないのだが、どうしてもこの状況では、相手の鎖骨や逞しい胸板が間近に迫って来て、目のやり場に困ってしまう。
「何か冷たいものでも飲みに行きましょうか」
 その言葉とともに、背中に男の掌があてがわれた。
 肌に直に触れられたためか、無意識に身体がびくりと震える。
「ここの日差しは強すぎる。どこか涼しいところで休んだほうがよさそうだ」
 そう云われてみれば確かに、喉の渇きも不快なほどになってきていたし、少し目眩もする。
 しかし、星螺としては一秒も早くこの男から解放されたい。
 ある意味、さっきの若者たちより厄介な相手である。
「あの………お気遣いは感謝いたします。でも、その………………」
 そう云いつつ、やんわりと神父の両腕からすりぬける。
「………せっかくですけれど、連れがおりますので」
「ほう」
 神父は眉を上げた。
「そんな姿は見えなかったが………」
「ちょっと用事があってここを離れているだけです。でも、すぐ戻ってきますから」
 云いながら、星螺はイライラした気持ちを募らせていた。
 結局、事実をほぼそのまま告げる格好になってしまったのも忌々しい。
 今朝からのささくれ立った気持ちが、一気に限界を超えようとしている。
「それはそれとしても、本当に休みに行ったほうがいい。とても辛そうですよ」
 ロベルトは相変わらず距離をつめてくる。
 表情を見る限り本当にただ心配しているだけのようだが、近寄られるだけ後ろへ退る。
「いいえ、そんなことありません」
「とにかく、お連れが戻ってくるまで私がついていましょう」
「いえ、大丈夫ですから」
「しかしこのまま貴女を独りにしておくのは………――――――」
「結構です!」
 突然、視界がぐにゃりと歪んだ。
 闇雲に後ずさりしようとして、波に足をとられてしまったのか。
 無重力空間に放り出されたように星螺の身体は平衡を失って、後ろへ倒れそうになる。
 その時、自分が何か叫んだような気もするし、危ないという声を聞いたような気もした。
 しばらく、何がどうなっているのかまるでわからなかった。
「――――――大丈夫ですか」
 気がつくと、目の前に日に灼けた肌があった。全身を何か熱いものが押し包んでいる。
 ロベルト神父に抱きすくめられているのだと理解するのに、しばらく時間がかかった。
「あ………ご、ごめんなさい」
 びっくりして身体をもぎはなそうとするが、力が入らない。もしくは、神父が腕の力を緩めようとしないからだろうか。
 胸の奥で、不思議な動悸がする。
 倒れそうになったところを抱き支えてくれたのはわかるが、この態勢は非常に困る。シュテファンとすら、ここまで素肌のまま触れ合ってはいないのに………。
「ほれご覧なさい」
 神父の声はいたって冷静なものだった。
「やっぱり具合が悪いんでしょう。私がどこか涼しいところへお連れします」
「いえ、でも………」
「さ、もう黙って」
 有無を云わせぬ云い方だ。
 神父は腕で星螺の両肩を抱くようにしてどこかへ誘導しようとしている。
 しかし、心配してくれるのはありがたいが、とにかくこのまま一緒にはいられない。
(………どうしよう………――――――!)
 救いを求めるように辺りを見回した時、星螺はあっと声が出そうになった。
 すぐ近くに、さっきまでの自分のように波に足を洗わせている女性がいた。そして、さきほど星螺に絡んでいたのと似た若者たちが、やはり彼女の腕に手をかけたりしてどこかへ誘っている。
 緑色のボーダーが入った可愛らしいビキニ。サラサラした黒髪の下で、明らかに東洋人とわかる顔が困惑の表情を浮かべている。
 見覚えのあるその容貌に、星螺は食い入るように見入っていた。
「――――――………あ………」
 その時、女性の視線が星螺のそれとぶつかった。
 彼女の眸にも、驚きの色が広がっていく。
「――――――杏珠!」
「星螺?!」
 咄嗟に神父の腕を払いのけて、友人の許へ走り寄る。
「星螺………ホントに星螺? なんでこんなとこにいるの?」
 驚きながらも嬉しそうに笑いかける杏珠に、星螺はそのまま抱きついて、叫んだ。
「杏珠、お願い。ここへは杏珠と一緒に旅行に来てることにして!!」

 ――――――数分後。
 星螺と杏珠は、ビーチの砂に敷かれた毛布の上に、並んで腰を下ろした。
 シュテファンが持参し、セーラとシュテファン二人の陣地として敷いておいたものだ。
「………何だったの、あの男の人。ナンパ?」
 ほっと溜息をつくようにして、杏珠が訊く。
「うーん………そういうわけじゃないんだけど………………」
 応えながら、星螺も杏珠と同じ方向へ眼差しを向ける。
 そちらへ向かって去っていったロベルト神父の姿は、もうすでに見る影もない。
「だけど、杏珠のお蔭で助かったわ。地獄で仏って感じね、まさに」
 星螺も長い息を吐いた。
 なぜここに杏珠がいるのかはわからないが、何はともあれ、シュテファンを巻き込むことなくロベルト神父から逃れることができたのは本当にありがたかった。日本の友人と気楽な女旅をしているのだという星螺の説明を疑うふうもなく、ロベルト神父は簡単に星螺を解放して去っていったのだ。
「あたしこそホントに助かったよ。ヘンな男の人たちに絡まれて………ナンパだと思うけど、断りたくてもあっちには英語すら通じないんだもん。すごく困ってたの」
 自分のことに精一杯であまり気にとめる余裕もなかったが、あの時、杏珠を取り囲んでいた二人の若者は、星螺が登場してから、いつのまにか姿を消してしまっていた。背後に控えていた体格のいいロベルト神父の存在が図らずも功を奏したのかもしれない。
「だから、お互い様。ありがとっ!」
 杏珠がぎゅっと抱きついてきた。
 女の子特有の、柔らかな感触………。
 こんなスキンシップが、星螺は純粋に好きだった。ロベルト神父みたいな男相手に、気後れすることも警戒心を抱くこともないし、シュテファンみたいに心臓がおかしくなることもない。
 星螺も笑って、杏珠の背中に腕をまわした。
「ところで、星螺はどうしてここにいるの?」
「うん。実は、シュテファンに誘われてね」
 杏珠に事実を隠す必要はなかった。
 同じくカトリックの司祭に想いを寄せる者同士として、杏珠には初めて逢った時から、この秘密の恋について打ち明けてしまっている。
 ここへ来るまでの経緯を簡単に説明すると、杏珠の目がパッと輝いた。
「えー、星螺、すごいじゃん! それじゃ、もうすっかり恋人同士になったんだね?」
「いや………そんなことはないんだけど………」
「それにしても、よかったよ。ホントよかった」
 純粋に喜んでくれている杏珠を見ていると、星螺の気持ちも凪いでいくようだった。
 つまらないことで棘々していた自分が、恥ずかしくなってくる。
「だけど、シュテファンさんどこにるの? 星螺を独りで放っといちゃダメじゃない」
「んー………飲み物買うために街へ行ったんだけど………もう戻ってくるはずよ」
 そういえば、あれからゆうに三十分は経っている。
 シュテファンは、人を待たせることにかけては一種の天才だが、いい加減心配になってきた。
 星螺はまつわりついてきた不安をかなぐり捨てようと、明るく杏珠に向き直った。
「ところで杏珠は? やっぱり、イリア神父とデート旅行?」
「べ、別にデートってわけじゃないよ」
「じゃあ、一緒なんだ」
 杏珠も首筋までサッと赤く染めている。
 星螺は、さっき自分がそうされたように、彼女の背中に腕をまわして密着した。
 女性の目から見ても杏珠はとても可愛らしいと、星螺は思っていた。いわゆる成熟した女性の色香とはどこか違う、脆さと儚さの中にこそ見られるような、不思議な艶めかしさが彼女にはある。
「う、うん、まあ………」
「で? ナンパされて困ってる杏珠を放っておいて、イリアさん、どこに行っちゃったの?」
「行っちゃったんじゃなくて、最初から、あたし一人で泳ぎにきたの」
 杏珠はちょっと唇を尖らせた。
「ずうっとあたしのことは放っておいて、ちっとも構ってなんかくれないんだよ。朝からどっか出かけちゃって、行き先もわからないの。つまんないから独りで出てきたわけ」
「それならやっぱり、杏珠のことを放っておいてどこか行っちゃったってことじゃない」
「そりゃ確かにそうだけどさ………」
 ――――――楽しい。
 人目も気にせず、掴めない相手の気持ちに振り回されることもなく、まっすぐに相手と喋ったり触れあったりできることが、こんなに楽しかったなんて………――――――。
 いつしか、ロベルトに触れられた動揺も、シュテファンへの心配や不安も忘れて、星螺は杏珠と裸の肩を抱き合ったまま、同性の肌のぬくもりと戯れの会話の心地よさに沈みこんでいくのだった。




inserted by FC2 system