神父たちのバカンス事情



3

 衣服をすっかり取り払った己の姿を鏡に見て、彼は満足げに微笑した。
 決して小さいとは云えないバスルームも、湯船からもうもうとたちあがる湯気のためにまるで霧の中にいるような状態になっているが、曇止めされている姿見には、我ながら見事に引き締まった五体がくっきりと映っている。
 そんな自分の隣に、数十分前、確かに腕に抱いていたまろやかな身体を、想像の中で立たせてみる。実際にこの手で触れたのは今日が初めてだったが、今までも何度となくそんな妄想を思い描いては、残虐な興奮の炎が、胸の奥底で燃え上がるのを感じたものだ。
 ――――――やはり十代の少年とは、感触が少し違うな。
 掌や脇腹に未だに生々しい彼女の肌を思い出して、そんなことを考える。女を知らないわけではないが、すべては保身と打算だった。初老を迎えた婦人の相手をしたことも少なくない。
 湯に身体を沈め、瞼を閉じる。

 十年前………まだ、自分があの学校の専属司祭として籍を置いていた頃、彼女は現れた。
 最初は、特にその存在を意識することもなかった。ただ、欲望の捌け口として目をつけた男子学生と親しい間柄らしいのをみて、さりげなく観察しはじめたのだ。
 ――――――すると、自分でも不思議なほど深い興味が心を捉えていった。
 彼女は、同世代の他の女子学生たちとはどこかが違った。それは、東洋の血をひく容姿や、育った文化や環境の差だけでは、説明がつけられないもののようだった。特別美しいとか、秀でた才能や個性があるというわけでもない。………では、何だ?
 やがて自分の中で、かつて異常な執着と破壊欲を覚えた大学時代の先輩の面影と、年端もいかない東洋出身の少女の像とが、ひとつに重なっていった。
 一見、似ても似つかぬ二人。
 しかし、――――――否定しようのない共通点がある。
 それがはっきりとわかったのは、いつぞや、学校内の行事に呼ばれた折、その二人が肩を並べているのを実際に見た時だった。確かに、例の少女とまともに顔を合わせたのは十年前が最後になるが、都合で姿を見かけることはたびたびあった。しかし、あの時ほど彼女が美しく見えたことはなかった。
 ………おそらくそれは、“彼”の所業ではなかろうか。
 秘かに目をかけておいた学生から、今の学校専属司祭が若い女性を車に同乗させて、郊外へ行くのを見たという話を聞いたのは、それからほどなくしてからだった。
 自分の中に、直感のごとくひとつの想像が生まれたのは、その時だった。
 また、彼女に対し、明らかな欲望を抱いたのも。

 そして、あれは――――――今から、ひとつきほど前だろうか。
 例の学校で用事を済ませ、裏口へつづく廊下を歩いていた折だった。
 ちょうど専属司祭専用の部屋の前に差しかかった時、中から声が聞こえたのだ。
(――――――セーラ、今月の三週目って空いてる?)
(僕と、イタリアへ行かない? 三泊四日で)
 ………だから、お前は不用心だと云うんだ。
 その後電話口で交わされた約束も、待ち合わせ場所も行き先も、すべて筒抜けだったじゃあないか?
 器用に隠すこともできないなら、恋人などつくるものではない。そんなだからお前はいつも、あとで人知れず呻く羽目になるのだ………。
 喉の奥で笑って、彼は勢いよく湯の中から立ち上がった。
 ――――――もうすぐだ。
 もうじき、俺のものになる。
 さきほどはあと少しというところで獲物に逃げられたが、本来の目的は果たしたも同然。
 “あれ”が俺の手にある限り、どうにでもできる。
 菓子を焼き上げるのは、故国(くに)へ帰ってからでも遅くない。
 ………いや、ビーチで張り込んでいた際も、あれだけ長い時間、二人は離ればなれになっていたくらいだ。このバカンス中でもチャンスはいくらでもあるだろう。
 タオルを腰に巻いただけでバスルームを出ると、つけ放しにしておいたラジオから、『トスカ』の第二幕が流れだしていた。

Ha piu forte sapore la conquista violenta che il mellifluo consenso.
Io di sospiri e di lattiginose albe lunari poco mi appago.
(甘美な同意より、力づくの征服がこの胸を燃え立たせる。
  吐息も乳白色の月明かりも、俺には物足りない)

 スカルピアを歌っているのは、ティト・ゴビらしい。
 それでは、トスカ役はマリア・カラスか。
 確か、彼女はそのカラスに憧れて歌手を目指し、あの学校へ入学してきたはずだ。例の、当時彼女と親しくしていた男子学生を落として聞き出した話だから、間違いないだろう。

Non so trarre accordi di chitarra, ne oroscopo di fior
ne far l’occhio di pesce, o tubar come tortora!
(ギターの爪弾きも、花占いも、
  うっとりした目付も体の震えも、意味をなさないのだ)

 ――――――まったくだな。
 胸の内で歌劇中のローマ市警視総監に相槌を打ち、男はナイトテーブルに置いてあるものをおもむろに手に取った。
 ………今の俺もスカルピアなのかもしれない。
 これさえあれば………彼女は、俺の意のままになる。
 十年前に出逢った榛色の眸の少女は、すっかり成熟した大人の女性になってもなお、不思議な魅力で自分を惹きつけている。それは、例の男に対しても感じている残虐な欲望であり、彼女があの男の愛を受けているだけに、破壊への憧憬はより強くなるのだ。

Bramo. -La cosa bramata perseguo, me ne sazio e via la getto... volto a nuova esca.
Dio creo diverse belta e vini diversi...
Io vo’gustar quanto piu posso dell’opra divina!
(俺は呑むぞ! ――――――俺は獲物を欲し、追い求めては捨て、新たな標的を狙う。
  神は多くの美女と美酒を創りたもうた。
  俺はそれを心ゆくまで味わいつくしてやるのだ!)



「――――――………セーラ?」
 静かにノックして声を掛けるが、返事はない。
 そっと、ドアノブをまわして中を窺う。
 先ほどと変わらない姿勢のまま、ベッドの上で微かな寝息を立てている彼女をみとめて、シュテファンは静かに扉を閉じた。
 溜息が出た。
 可哀そうに――――――よほど疲れていたのだろうか。
 ビーチから戻って軽い昼食を摂った後、セーラは湯を浴びると、そのまま自室にこもってなかなか出て来ようとしなかった。心配したシュテファンが部屋を覗いてみると、彼女は洋服のままベッドに潜り込んでいた。ちょっと呼んでも起きないほど深い眠りに落ちているらしく、シュテファンが様子を見るために室内へ入っても、目を覚ます気配すらなかった。まるで何日も徹夜した人のようだ。
 その無防備な寝顔を見るたびに、胸の奥がしめつけられるような感覚に襲われるシュテファンだった。………それは、彼が今日初めて彼女に対して抱いた不可思議な感情に対する、一種の罪悪感でもあったのかもしれない。

 飲み物を買ってビーチへ戻る途中でイリアと名乗る男性に話しかけられ、十分ほど彼と会話した後、シュテファンは今度こそ浜辺への道を急いだ。ビーチを離れて三十分以上が経っている。たった独りでぽつんと自分を待っているであろう、セーラの姿が目に浮かんでいた。
 ――――――彼女はいつもそうだった。
 必ず自分より先に待ち合わせ場所に来ていて、夢見るような眼差しで空を仰ぎながら佇んでいるのだ。その表情や身にまとう雰囲気が、まるで彼女を、現世にいながらにして天空の存在のように見せた。そして、シュテファンがどんなに約束の時間に遅れても、決して嫌な顔をせずに微笑んだ。そうやって唇に微笑みが浮かんで初めて、セーラはこの世の人になるかのようだった。
 しかし、ビーチに到着すると、意外な光景がシュテファンの目に飛び込んできた。
 セーラは独りではなかった。――――――ビキニ姿の女性と並んで腰をおろし、肩を抱き合って、何事か楽しそうに語り合っていたのだ。
 シュテファンはしばらくの間、十メートルほど離れたところに立ち止まってその様子に見入っていた。二人は遠慮気兼ねなく密着したまま、お互いの肩に頭をもたせかけたり、時には両腕で相手を抱きしめたりしている。
 そして、相手の女性の顔を覗き込むセーラの横顔が見えた。
 輝くばかりの笑顔。――――――今朝から沈みがちだった表情からはまるでかけ離れた、心から楽しそうで、幸せを絵にしたような美しい笑顔だった。
 それを見た途端、シュテファンはなぜか胸がさっと冷たくなるような感覚を味わった。
 気がつくと、彼女たちに背を向けて荒々しい足取りで遠ざかっていた。このままセーラを置いて、ペンションへ帰ってしまいたいような衝動に駆られた。さっき胸を貫いた氷のような冷たさにかわって、体中がカッと熱くなっている。
 ――――――いったいどういうことだ………?
 いくらも歩かぬうちに、シュテファンは動悸のような激しい息切れを覚えて立ち止った。湧き上がりつづける激情は、彼をその場に立ち尽くさせて動かそうとしない。まるで足が石になったようだ。
 幾時そうしていたかわからない。
 ようやく感情の波もおさまってきたところで、深く息を吐きながら振り返ってみると、すでにセーラは独りになっていた。ゆっくり歩み寄っていく自分に気がついて、セーラが心から安心した様子で手を振るのを見た時、シュテファンもようやく、本来の平常心を取り戻せた気がした。
 しかし彼女の顔は真っ青で、立ち上がろうとしても眩暈ですぐに倒れそうになるほどだったため、二人はそれからすぐにペンションへ帰って来たのだった。

 ――――――それにしても………。
 キッチンの椅子に座って考え込んでいたシュテファンは、再び深く息を吐いた。
 “あれ”はなんだったのだろう?
 決して気持ちの良いものではなかった。しかし、まったく知らないものではない。
 遠い昔に忘れ去ってしまったような、不思議な感情………。
(――――――なんだか、おかしいな。俺も、彼女も)
 シュテファンは大きく頭を振ると、勢いよく立ちあがった。
 イリアと約束した時間が迫っている。
 セーラをこのまま独りにしておくのは気がかりだが、もう出掛けなければならない。
 備え付けのメモ用紙を一枚ちぎりとると、シュテファンは手早く伝言を認めた。

      用事ができたので、出掛けてきます。
      晩ご飯は先に済ませてください。

 紙切れを、キッチンテーブルの上へ置く。ここなら、間違いなくセーラの目にとまるだろう。
 鏡の前でサッと髪に手櫛を入れ、部屋を出た。
 相変わらず雲ひとつない空は、傾きつつある太陽の光を受けて、青と橙を混ぜたような不思議な色合いを見せている。もう少しすれば、セーラがこよなく愛している黄昏が広がるのだろう………。
 腕時計を見ると、午後六時少し前だった。昨夜、アンジュを送り届けたホテルまでは、ここから十分ほどの距離。少々遅れてしまうが構うまい。
 イリア――――――旧約聖書に登場する預言者と同じ名の神父。
 今日になって初めてまともに言葉を交わした相手の申し出を受けたのは、シュテファンとしてはいささか不本意であった。この三日間のバカンスを、本来ならばセーラと一緒にゆったりと過ごして楽しみたいと思っていた。
 しかし、それに勝る好奇心と………なんだか、彼の誘いを受けなければいけないような本能的な直感に押された形で、シュテファンは夕食を共にすることを承諾した。
 彼は、まるで地から降って湧いたように、忽然と姿を現した。
 初めは気配だけで………そして実体として。
 あの出現は、自分をその気にさせるための演出ではなかったのかとすら思えてくる。
 それでなくても、シュテファンはヴァチカンで初めてその姿を見た時から、すでに彼が唯者ではないことを見抜いていた。
 何もあの容貌のためだけではない。彼の気配は、尋常な人間のそれではないのだ。完璧な美しさを湛えた微笑みの向うに広がる“何か”は、まるで、異界から姿を現したもののようにすら感じられる。果たして、自ら名乗ったように本当にヴァチカン勤めの司祭なのかさえ疑わしい。
 そんな相手が自分を食事に招じたのが、本人が云い訳したように、単に彼の連れを助けた礼がしたいからだけではないことは、容易に想像できた。
 そして、イリアにセーラの存在を言及されたことが、最終的にシュテファンの腹を括らせた。
 イリアとアンジュの関係性はよくわからない。しかしヴァチカンで、ほとんど一瞬ではあるものの四人揃って顔を合わせている。セーラが同世代のアンジュに、自分のことを何らかの形で話し、それが彼女を通じてイリアに伝わっていたとしても何の不思議もなかった。
 シュテファンとしては、別にセーラが誰に己の恋のことを打ち明けても構わないと思っている。
 だから、自分のことがどのような形でイリアの耳に入っていようが、そのこと自体は別段気にも留めてはいない。
 気になったのは、赤い目をした男の、暗に含むような不思議な物云いだった。
“………私と貴方には、重なる点もあるようですしな”
“同じように、アンジュとセーラさんにも、様々な共通点があるようだ。――――――まあ、そういったことで、個人的にいろいろとお話を伺いたいのですよ”
 起伏の乏しい、低い男の声が耳に蘇る。
 何を考えているのか知らないが、あの得体のしれない男の真意は探らねばならない。
 それに………怖いもの見たさというか………本当に、個人的にいろいろと話してみたらおもしろそうだといった気持ちがあるのも、否定できない事実だった。
 昨夜アンジュを送り届けたホテルの姿が見えて、武者震いのような高揚と緊張が、知らぬ間に歩調を速めたシュテファンの心を包みこんだ。



 扉の閉まる音を聞いたような気がした。
「――――――………ん………………」
 うっすらと、瞼を開ける。頭が重い。意識がなかなか、五感の情報を受け付けない。
 ………………私、どうしたんだっけ?
 眠っていたの?
 ――――――厭な夢を見た。
 シュテファンと電話で話しているのだが、何か大事なことを星螺が口にしようとするたびに、電波が途切れたり割り込通話があったりして通話が途切れてしまう。何度も何度もかけなおしているうちに、とうとう『おかけになった電話番号は現在使われておりません』というアナウンスになる。………今までにも度々、星螺を襲ったことのある悪夢だ。
 ぼんやりと見慣れない木目の天井を見つめたまま、記憶の糸を手繰った。
 そうだ。私、シュテファンと海へ来たんだ。彼を待ってる間に、ロベルト神父に逢って………杏珠もいたわ………そして、彼女と入れ替わりに、シュテファンも戻ってきて、そして………………。
 その時、再び扉の閉まる音が聞こえた。つづいて、ガチャリと鍵が施錠された気配がした。
 今度こそ、星螺の意識はハッキリとそれを認識し、途端に眠気も醒めてしまった。
「――――――………シュテファン?」
 急いでベッドから半身を起こし、緊張した声で呼ぶ。――――――返事はない。
 星螺は飛び起きた。
 あれから、どれくらい眠ってしまったのだろう。
 どうも、出発の前日と昨夜と眠れずにいたのが祟ったらしい。いみじくもロベルト神父が指摘したとおり、星螺の身体は確かに悲鳴をあげていたのだ。浜辺で出逢った杏珠がホテルへ帰り、ほとんど入れ違いに飲み物をもったシュテファンが戻ってくると、気疲れしたのと安心したのとで、どっと疲労が出てきてしまった。さすがにシュテファンは一目で彼女の不調を見てとって、自分が云いだすまでもなく、ペンションへ帰って休むことを提案してくれたのだ。
 ご飯を食べてシャワーを使うと、いよいよ限界だった。
 髪も乾ききらないままにベッドへ倒れ込み、そのまま寝込んでしまったらしい。
 自室を出て、バスルームや彼の寝室などを覗いてみたが、果たして、シュテファンの姿はどこにもない。キッチンテーブルの上に、彼が書き残したらしいメモが見つかっただけだった。
 星螺は途端に、云いようのない不安に襲われた。
 幼い頃、稀に母親が自分より先に寝てしまった時の、あの何とも云えない寂しさと恐怖が連想された。友達が泊まりにきたような時も、たいていは友達のほうが先に睡魔に連れて行かれて、ひとり布団の中で泣いたものだ。あの時とまったく同じ気持ちだった。
(………用事って………なんなのだろう)
 そんなの彼はひとことも事前に教えてくれなかった。急遽決まったことなのだろうか。
 もっとも、星螺にしたってロベルト神父や杏珠に出逢ったことを彼に伝える気力すらなかったし、ビーチで落ち合ってからというもの、シュテファンとはろくに言葉を交わしていなかった。
 ひょっとしたら、私が長いこと浜辺で待たされていた間に、何か用件ができたのかもしれない。
 伝言を残しておいてくれたわけだし、心配することはないのではないか。
 理性はそうして必死に自分を落ち着かせようとするものの、星螺の胸騒ぎに似た不安は消えなかった。あんな夢を見た直後だからだろうか、独りぼっちにされて置いていかれる恐怖に、いてもたってもいられない。
(――――――………シュテファン………――――――)
 星螺の胸にある考えが閃いたのは、その時だった。



「シュテファンさん」
 ホテルの入口まであと十数メートルというところで、シュテファンは前方から歩いてきた女性に声をかけられた。というよりも、シュテファンのほうが先に認識していた彼女が、至近距離になってようやく、はっとこちらに気づいて声をあげたような格好だった。
「アンジュさん………でしたね」
 彼女は一瞬、驚いたように大きく目を見開いたが、すぐににっこりと微笑み返してきた。
「あたしの名前、ご存知だったんですね」
「セーラから貴女のことは、たびたび聞いていたものですから」
「そうだったんですか」
 こうしてあらためて明るい日差しのもとで見ると、アンジュはまったく魅力的な女性だった。
 容姿が特別美しいとか、華やかな雰囲気をまとっているというわけではない。しかし、大人にありがちな装いや感情的な仮面のようなものを感じさせない、生れた時からのありのままの自分を剥き出しにしたような雰囲気がある。その点ではセーラに似ていると、シュテファンは少し感慨を覚えた。
 そして、どこかあどけないようなものすらあるのに、男を引き寄せずにおかない、一種中性的ともいえる艶めかしさが、蜂蜜からたちのぼる甘い香りのように放たれていた。
 ――――――これは、昨夜のような治安の悪い場所でなくても、そうとう異性絡みで苦労する女性なのではないかと、シュテファンは一瞬のうちに胸の中で分析していた。
「あなたこそ、よく僕のことを………」
「今日、ビーチで偶然セーラと会ったんです。別れ際に、彼女のほうへ歩み寄ってくる貴方を見て、あっ、きのうの男の人だって気がついて、やっと………」
 そうか。じゃあ、浜辺でセーラが親しく話していた女性は、アンジュだったのか。
 背後から見ただけだったので、まるでわからなかった。
「それにしても、きのうは本当にお世話をかけてしまって………………」
 ありがとうございましたと、アンジュは丁寧に頭をさげてきた。
 そんな彼女を見ていたら、シュテファンの口元にも素直な微笑みが浮かんだ。
「でも、あたしうっかりしてますよね。全然、貴方がシュテファンさんだなんて気づかなくて」
「ヴァチカンで一度お会いしたきりでしたからね。僕だって貴女がわからなかったんだもの」
「そうですね」
 目を見合わせ、一緒に声を出して笑う。
 いい娘だ………。
 シュテファンは胸の内で思った。彼女なら、確かにセーラとも気が合うだろう。
「シュテファンさんは、これからどこか出掛けるんですか?」
 アンジュが、ふと気付いたように訊ねてきた。
 そうか………イリアは、彼女に自分との会合について話していないのか。
「ええ、ちょっと用事がありましてね」
「セーラも一緒に?」
「いや、僕独りです」
「そうなんですか………」
 アンジュはシュテファンから視線を外し、少し眉根を寄せて、何か思案する表情を浮かべた。
「貴女こそどちらへ?」
 逆に訊ねてみると、彼女はすぐにきれいな眸でこちらを見上げてきた。
「ちょっと散歩でもって思って………退屈なんですよ。連れが全然構ってくれないもんですから」
 そう云っておかしそうに笑う。
 シュテファンも一緒になって笑ったが、同時にある考えが閃いた。
「それなら、セーラと一緒にご飯でも食べたら? 僕は今夜いっぱい、おそらく用事で帰れませんから、彼女独りなんですよ。貴女が行けばきっと喜ぶと思うんですが」
 アンジュは、目を見開いてシュテファンをまじまじと眺めていたが、にっこりと笑った。
「わかりました。喜んでそうさせて頂きます」
 シュテファンが宿への道順を説明しようとすると、セーラから聞いているという。ビーチで会話した少しの間に、お互いの泊まり先も教えあったらしい。
 アンジュはこれからすぐそちらへ向かうと云った。
 セーラもそろそろ起きているだろうし、きっと、友人との水入らずのひとときを楽しむことだろう。
「――――――………シュテファンさん」
 別れの挨拶を交わしてお互い歩きだした時、ふと背後からアンジュが呼んだ。
「何か?」
 振り返って訊き返す。
 アンジュはさきほどとは違う真剣な眼差しで、まっすぐにこちらの眸を捉えていた。
「こんなこと、お節介かもしれないんですけど………セーラをあまり独りにしておかないほうがいいですよ。彼女、きれいだし目立つし、………さっきのビーチでも、変な男に絡まれてたんです。………あたし、あれがどうもただのナンパだったとは思えなくて」
 シュテファンは黙っていた。もしかしたら、硬い表情になっていたかもしれない。
 アンジュは少々間をあけたあと、今度は微かな優しい微笑みを浮かべて、静かな声で云った。
「セーラって、とっても繊細な子だから。貴方が大切にしてあげて下さいね」



 気がついたら、道路と浜辺を隔てる堤防に身をもたせかけて、肩で大きく息をしていた。
 頭の中で鋭い光がチカチカと点滅し、心臓は喉から飛び出しそうな勢いで鳴っている。力任せに走ったせいもあるが、町の景観から通行人まで、視界に入るすべてのものの現実感を根本から奪うだけの衝撃が、まだ体中を駆け抜けつづけている。
(――――――………嘘でしょ………?――――――)
 じっとり汗ばんだ額に掌をあてて、星螺は必死にこみあげてくるものを抑え込もうとした。
 ………しかし、さきほど目にした情景はこれ以上にない鮮明さで脳裏に焼き付いている。

 たった独りで目覚めたペンションから、星螺は自分も外へ出た。
(杏珠に逢いに行こう)
 ふとそんな気持ちになったのだ。
 ホテルの場所は、ビーチで話した時に教えて貰っている。せっかく近い距離にいるのだから、実際に逢っていろいろなことを話したい。
 結局あの時は、遠くに現れた杏珠の知りあいらしき青年が彼女を手招きしたため、あまりたくさんは喋れなかった。本当は、ロベルト神父のことも、シュテファンが昨夜、見知らぬ女性の香りとともに帰ってきたことも、話したかったのに。人に聞いて貰うだけでスッキリすることもあるし、杏珠になら、なんでも打ち明けられるもの。もし、彼女の都合に差し障りなければ、晩ご飯に誘ってみよう。
 そう考えると、シュテファンに置き去りにされたような寂しさも、今朝から棘々していた気持ちも、すっと消えたような心地になった。友人とのひとときを想って胸が弾んだ。
 杏珠の宿泊先は難なく見つかった。近代的なつくりの、高級感が漂うリゾートホテルだ。
 その雰囲気に気圧されて、星螺はホテルの入り口から道路を挟んだ場所に、しばしの間立ち尽くしていた。こちらでの携帯の番号もアドレスもわからない杏珠と連絡をとるためには、フロントから内線で呼び出して貰わなければならない。今の自分が身につけている、キャミソールにデニムのショートパンツという服装のまま入っていくのは、なんとなく抵抗を覚えてしまう。
 しかし、それがなんだというのだ。見ていれば、出入りしている人たちも星螺と同じような服装だ。何も恥ずかしがることなんかありはしない。
 そう思って一歩を踏み出そうとした時、ちょうどホテルの出入り口から見覚えのある姿が滑り出したのを見て、星螺ははっと目を見張った。
 ――――――杏珠だ。
 ふんわりした生なりのボレロの上に、艶やかな髪が陽光を受けて揺れている。
「杏珠!」
 呼びかけたが声は届かなかったらしく、杏珠はスカートの裾をひらめかせてスタスタと歩いていく。すぐに反対車線へ渡ろうとしたが、友人との間に横たわる道路は幅が広いうえに、交通量が多くてなのかなかなか車の往来が途切れない。
 じれったさを堪えながら横断のタイミングを窺っていると、杏珠の足がふいに停まった。前方から歩いてきた人物と、向い合うようにして立ち止まった格好だった。
 一瞬、杏珠が立ち止ったことにほっとした星螺は、相手を認識した途端、逆に心臓がさっと凍っていくような感覚に襲われた。
 にこやかに彼女と言葉を交わしているのは、シュテファンだった。
 今朝とは違う涼しげな半袖シャツに、すっきりとした上品な黒のズボンを身につけている。
 見間違いではないか………?
 いや、確かに彼だ………!
 二人の姿に見入っていた時間は、ものの数秒にも満たなかったかもしれない。
 次の瞬間、星螺は踵を返して走り出していた。
 後方へどんどん流れていく景色がふいに歪んだのは、涙が溢れたためのようだった。

「――――――………うっ………………」
 堤防に身をもたせかけたまま、星螺は両手で口元を覆って衝動的な嗚咽を堪えた。
 落ち着かなくちゃ。
 落ち着かなくちゃ………。
 しかし、そう繰り返せば繰り返すほど、どんどん落ち着きを失っていくような気がする。
 シュテファンが自分を独り置き去りにしたまま出掛けた“用事”とは、杏珠に逢うことだったのだろうか。………いや、そうに違いない。声こそ聞えなかったものの、二人はその時偶然行きあったので挨拶したというより、待ち合せていた男女が話し合っている雰囲気だったもの。
 星螺には、あの後二人がそのまま町のレストランか、ホテルの中へ入っていく情景がつづいたような気がしてならなかった。それを目にしたくないがために、本能的に逃げ去ったのだ。
 待って、………待って。
 落ち着かなくちゃ。
 落ち着いて考えなくちゃ。
 杏珠は大切な友人だ。自分のシュテファンへの想いはよく知っている。彼女だって、私になんか負けないくらい深い想いでイリアを慕っている。二人の間に、恋愛感情だの男女関係だのが微塵もありえないことは、ちょっと考えればわかることだ。
 ――――――でも、待って。
 確かに私は、杏珠にはシュテファンのことをたくさん話していたし、シュテファンだって、私に杏珠という友達がいることは知っているはずだけれど、実際に二人が顔を合わせたことがあるのは、ヴァチカンでのあの一度きりのはず。
 しかし………それにしては、二人は親しげだった。
 あれは数年前、挨拶を交わしたことがあるだけの人間が、久しぶりに出会った雰囲気ではない。
 それに、仮に今夜、杏珠とシュテファンがこうして逢うことが決まっていたとして………そのこと自体はまったく構わないのだが、………それをなぜ誰も私に告げてくれなかったのか。シュテファンだって何も云わなかったし、昼間に逢った杏珠も、そんなことまったく口にしなかった。
 二人とも、私に隠しておきたかったということ………――――――?
 その時星螺の鼻先に、例の甘い化粧品の匂いが甦った。
 まさか、………昨夜、いつのまにか外出していたシュテファンに、化粧品の匂いが移るほど接触した女性とは、………――――――まさか。
 さっと目の前が暗くなった。
 星螺は今日、ビーチで間近に見た杏珠の姿を思い出していた。
 剥き身の卵のような、弾力のある真白な肌。ビキニに覆われた豊かな胸。ほどよい肉付きの、形よく伸びた四肢。艶やかでどこかあどけなさすら残す、大きな眸。そして、女にも禁断の興奮を誘いかねない不思議な艶めかしさ………。
 もし、昨夜偶然、シュテファンと杏珠が出逢っていたのだとしたら?
 私でも思わず触れたくなるような彼女に、………私にはないエロチズムの魅力を備えた彼女の雰囲気や身体に、シュテファンが男性特有の本能で惹かれたとしたら?
 そして………――――――。
 その先を考えまいと、星螺は激しく頭を振った。
 自分が冷静な状態でないことはわかっている。
 しかし、昨夜から積もり積もった不安や疑惑、じゅうぶんな睡眠がとれていないことからくる疲労が、彼女に落ち着いて物事を見、感情を制御する力をすっかり奪ってしまっていた。容赦なく襲いかかって来る激情は、鋭い痛みとなって胸を切り裂く。
 もう、たくさん。
 こんなの、もうたくさんよ………――――――!

「――――――………セーラさん?」
 間近からそう呼びかけられたのは、ヒステリックな神経の昂りに代わって、何か乾ききった白々しいものが、星螺の中を流れはじめた時だった。
 無機質な気持ちのまま、声のした方向へ頭を傾ける。
「どうかなさったのですか」
 怪訝そうなロベルト神父の顔を見ても、星螺はさして驚かなかった。以前から、こうなることが約束されていたような予感がした。
「連れが構ってくれませんので、気晴らしに散歩に出てきましたの」
 自分でも不思議に思えるほど明るい声が、口をついてすらすらと言葉を発した。
「………何か、あったのですか」
 ロベルトがいささか心配そうな眼差しになって、一歩近づいてくる。きっとまだ、泣きはらして真っ赤な目をしているのに違いない。
「いいえ………なんでもありませんわ」
 本当に何でもないように答えたつもりが、声音にはそれを否定する響きが混ざってしまった。神父は何も云わず、なんともいえない眼差しをただじっと星螺に注いでいる。
 奇しくも彼は、シュテファンと似たような清潔なシャツに、上品な黒ズボンという出で立ちをしていた。ただ、首元のボタンを上までかけきっていないことと、見えるか見えないか程度の胸元に、金色の鎖がキラリと光っていることだけが違っている。
 星螺の知っているロベルト神父は、いつも僧服(キャソック)か、襟ぐりのないキッチリした黒シャツをまとっていた。こうして見るとなかなか男性としても魅力的だ。
 しかしそれよりも、相手の灰色の双眸に現れている優しさの色に、星螺は不思議な居心地の良さを覚えていた。十年前はあんなに恐ろしく思えた神父の視線は、今、抗いようもなく自分の眼差しを絡め取っている。昼間のように、そこから逃れたいという気持ちはなかった。
 ロベルトはふいに眼差しの力を緩めると、親切そうな微笑みを浮かべた。
「この近くに、いい店を知っています。何か美味しいものでも食べましょうか」
 魔法にかかったように頷いた自分を、星螺はどこか醒めた気持ちで認識していた。




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