神父たちのバカンス事情



4

「やあ、お待ちしておりました」
 シュテファンが、あの完璧な美しさを湛えた微笑みに迎えられたのは、ホテルの最上階にある豪華な部屋であった。
「遅くなってしまって申し訳ありません」
 もともと出掛けた時間が遅かったうえにアンジュと立ち話をしたため、待ち合わせ場所として指定されたホテルのロビーへ入った時、約束の時間を十五分ほど過ぎてしまっていた。
 しかし、シュテファンの予想とは裏腹に、そこで自分を待ち受けていたのはイリア本人ではなく、大海原のような眸が印象的な若いベルボーイだった。
「シュテファン・シヴァビンスキー様ですね。イリア様の許へご案内いたします」
 そう云うと、ベルボーイは先に立ってシュテファンを案内した。
 一緒にエレベーターへ乗り込んで、目的の階で扉が開いたその先が、そのままスイートルームの玄関になっていたのには驚いた。そしてちょうど、奥から現れたイリアにベルボーイが恭しく一礼し、再びエレベーターで退室したところだった。
「なんの。こちらもたった今用意ができたところです」
 シュテファンの詫びに対して、イリアは鷹揚な口調で答えた。
 しかし、彼がシャツの上からローブを羽織っただけのくつろいだ部屋着姿でいることに、おやっと思う間もなく奥へ通されると、ホテルの一室にしては大きすぎるダイニングが現れた。
 中央のテーブルには、本格的な晩餐の用意が整えられている。
「外ですと落ち着いて話せないでしょう」
 そう云いながら、イリアは丁寧な所作でシュテファンに椅子をすすめた。
「給仕もおりませんのでご不便をかけますが、ご容赦頂きたい」
 うっかり、ラウンジ内のレストランへでも場所を移すのだと思い込んでいたので、さすがのシュテファンも些か面喰った。
 しかし、それほど抵抗は感じない。
 ろくに知らない相手だが、彼ならこのようなやり方をされても、あまり不自然な気がしなかった。
 食前酒(アペリティフ)の希望を訊かれ、シュテファンはカンパリを頼んだ。イリアはすぐにミニバーからボトルを取り出してくると、赤い液体を自分とシュテファンのグラスに注ぎ分けた。
「普段はヴァチカンにお住まいなんですか?」
 レモンをグラスに浮かべながら、何気なく訊ねてみる。
 妙齢の未婚女性とこんな高級ホテルに泊まったり、モンテ・クリスト伯爵並みの豪遊ぶりを見せたりしているあたり、彼が一介のカトリック司祭とは考えづらいが、質問に特に他意はなかった。
「――――――………貴方のような方でも、そんなことを訊くのですな」
 酒の入ったグラスを指先で弄びながら、イリアは溜息交じりに応えた。
 口調は鷹揚なままだが、その鋭い眼差しはまっすぐにシュテファンを捉えている。
「現世での住処など、所詮、仮初の宿。この質素なホテルだろうが、システィーナ礼拝堂だろうが、どこだろうがなんら変わりはありません。――――――それは貴方だってよくおわかりでしょう」
 シュテファンは一瞬眉を寄せたが、僅かに目を細めて微笑んだ。
 グラスに唇をつける。酒の甘みとレモンの酸が心地よく舌に沁みた。
「………確かに、貴方の仰るとおりです。――――――それでも、僕たちは時間と空間の中に存在している以上、どこかに拠点を持たなくてはならない」
「では、貴方はどちらにその拠点をお持ちなのですかな?」
 イリアの血の眸が、より深く色づいた。
「さあね………僕は、そこらじゅうにいながらにして、どこにもいないような心境なんですよ」
「私もです」
 食卓を挟んだまま、しばらく、二人の視線は空中で絡まった。
 低い笑い声が漏れた。どちらからともなくグラスを持ち上げ、乾杯した。



 ロベルトは、海からほど遠くないリストランテのボックス席でセーラと向い合った。
 小奇麗な洒落た店で、女性が好みそうな繊細で優しい内装が施されている。しかしセーラは、その眼差しの中に警戒心の強い野生動物のような光を抱いたままだった。
 ………まあ、構わない。
 それに、彼女が誘いに応じた時点で、勝負はすでについたも同じなのだ。
「何か気になることでも?」
 そわそわと落ち着きのないセーラに声をかけると、彼女は戸惑いの隠せない眼差しをこちらに向けて、どこかとってつけたような苦笑を浮かべた。
「いえ………ちょっと、自分の服装が気になってしまって。場違いではなかったでしょうか」
 そう心もとなげに自分の姿を見おろす彼女に、神父は優しく微笑んでみせた。
「そんなことありませんよ」
「でも、なんだか人に見られているような気がします」
「それは貴女が美しいからでしょう」
 セーラはグラスに落としていた視線をハッとあげた。
 しかし、恥じらいに頬を赧らめることもなく、余裕の笑顔を見せた。
「まあ、お上手ですこと」
 ………………おや。
 ロベルトは内心、少々驚かずにはいられなかった。
 たいていの女性なら、………ましてや彼女くらい若くて純情な娘なら、このくらいの言葉でかなりの手応えを覚えられるはずなのだが………ビーチでは、確かな反応があったのに。
 ――――――これはもっと飲ませてやったほうがいいのかもしれない。
「いや、本当ですよ」
 神父はグラスにワインを注ぎ足しながら、彼女を見つめる眼差しにより甘い色を加えた。
「貴女を前にしていると、自分が聖職者になったのを後悔したくなってくるくらいです」
「あら、そんな戯れを仰るほど、神父さまが酔われてはいけませんわ」
 セーラは笑ってはぐらかした。警戒する眼差しは変わっていない。
 ワインを一口含む。
 アルコールがカッと胃を熱すると同時に、体の奥であらたな炎が燃え上がった。
 ………望むところだ。手ごわい獲物のほうが、こちらも征服のしがいがある。
 料理が運ばれてきたのを機に、ロベルトは話題を変えた。
 しかし、セーラは見かけによらずしたたかな娘だった。アルコールが入っても乱れの兆しすら見せず、どんなに女性が喜びそうな話術で会話を盛り上げても、当たり障りのない言葉と態度で応じつづけ、決してこちらに隙を与えない。さきほど海辺で、明らかな涙の痕を頬に残していた時の儚い姿からは、くらべようのないほど冷静で、それとわかるかわからないか程度の警戒の光が、変わることなく双眸に輝いている。
 ロベルトは、彼女が自分の思うように反応しなければしないだけ、体の奥に燻ぶっている残虐の炎が、どんどん勢いを増していくのを感じずにはいられなかった。
「――――――ところで、セーラさん」
 ロベルトがこう切り出したのは、ウェイターがメインディッシュの皿を下げた時だった。
「昼間、ビーチで一緒だったのは………どういう方なのですか?」
「ええ。私、学校をやめてからしばらくは日本におりまして、その頃、アマチュアの劇団に所属していた時期があったので………彼女ともそこで親しくなりました」
 まったく淀みのない答えがスラスラと返ってきた。
 セーラとあの見知らぬ東洋娘が、本当に個人的な知り合いであることは確かなようだったから、この話も概ね事実を告げているのだろうが、このような質問をされた場合どう答えるべきか、前もって考えておいたことが、あまりに自然過ぎる口調からも窺い知れた。
「それでは、貴女は今でも日本にお住まいに………?」
 一瞬、怪訝そうに眉を寄せたセーラだったが、すぐににっこりとして首を横に振った。
「さっき申しましたように、昨年、国の北のほうの家へ両親とも引越しましたので、現在はそちらにおります。あの友人が、ちょうど欧州旅行をするつもりだというのを聞きまして、一緒にしばらく過ごしたいと話し合い、ここで落ち合ったのですわ」
 ――――――見事だ。
 ロベルトは心の中で苦笑せずにいられなかった。
 料理を食べている最中、彼女の現在住んでいる場所についての話題が出ていたのを、ちゃんと記憶していたうえで出した回答なのだろう。ほころびそうになった矛盾をきれいに拭っている。
「なるほど………そういうのも全部、あの男の入れ知恵なのですかね」
「あの男………?――――――」
「貴女をここへ連れてきた男のことですよ」
 一瞬、セーラの顔が強張ったかに見えたが、ロベルトはそれに気付かないふうに、ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を指の腹で撫でながら先をつづけた。
「――――――いや、そうではないでしょう。彼ほど嘘や狡猾さというものに縁のない男はいない。武骨で、寡黙で、正直で………しかし、彼の笑顔ほど感情の読めないものもありません。誰にでも人好きのするあの微笑みを向けるから、多くのご婦人方を勘違いさせてしまう………――――――」
 今度こそ、セーラはサッと蒼ざめた。しかしそれも、すぐに苦笑に誤魔化される。
「何か勘違いなさっているようですけれど、私とここに来ているのは、例の日本からきた女友達ひとりです。他に男性の連れなんておりませんわ」
「では、これはどういうことなのですかねえ」
 ロベルトは、おもむろにスマートフォンを彼女の目の前に差し出した。
 セーラは怪訝そうに眉根を寄せたまま液晶画面に見入っている。そこに映し出されている画像が何を意味しているのか、理解できていないらしい。
「これ、貴女でしょう?」
 数秒の間があって、顔色が変わった。
 一瞬、呆然とした眼差しをロベルトにあて、もう一度、端末の画面に目を落とす。
 再びこちらを見上げた双眸には、明らかな混乱の色が浮かんでいた。
「最初に目にとまったのは、実は殿方のほうだったのですよ」
 ロベルトは何でもないふうに云いながら、洒落た手つきでスマートフォンを手元に戻した。
「どこかで見た顔だと思ったのでね。注意して見てみたら案の定、私のよく知る男だったというわけです。なんといっても、シュテファンとは神学を学んでいた頃、何かと親しくしていた間柄ですからねえ………。それが、こんなイタリアくんだりで若い女性と旅行中とは」
 ロベルトは上目遣いに、セーラをねめつけるようにした。
 彼女も、その蒼ざめた顔にありったけの軽蔑のをこめて、こちらを睨みつけている。
「――――――………盗撮とは、あまり聖職者に相応しいご趣味ではありせんわね」
「貴女がそんな余裕のあることを云っていていいのですか?」
 ロベルトはそんな皮肉もどこ吹く風と静かに切り返した。
「この画像が公開されれば………もしくは、彼の勤めている学校や属している修道会に届けば、どういうことになるのか――――――貴女だってよくおわかりなのではありませんかね?」
 セーラはきっと神父を鋭い眼差しで見つめ返した。
「失礼ですが、貴方は思い違いをしていらっしゃるわ。確かに、私をここへ連れて来て下さったのはシヴァビンスキーさんです。でも、私たちは義理の父娘のような間柄でしかありませんし、何も疾しいことはありませんわ」
「何でもない間柄なら、なぜ私にも、素直に彼と一緒だと仰らなかったのですか?」
「それは………………」
「一緒にいることを知られたら困るからでしょう?」
「違います! 私とあの方とは、本当に………」
「まあ、貴方がたが実際どんな間柄かということは、別にどうでもいい。重要なのは、こうした画像を見れば誰でも必ず、私と同じ想像をするだろうということですよ」
「………――――――」
 ちょうどそこへ、来店時に用を申しつけておいたウェイターが恭しく近づいてきた。
 他意のない笑顔で彼を振り返る。
「シャンブル・セパレーの用意はできたかね?」
「はい。もういつでもお入り頂けます」
 ロベルトは満足げに頷いた。
 ――――――さあ、本番はこれからだ。
 わざとらしいほどうんと優しい微笑みを浮かべて、セーラに眼差しを戻す。
「では、場所を変えてゆっくり話しあうとしましょうか。デザートとコーヒーはそこで頂けばいいでしょう?」
 立ち上がりながら、彼女の顔を盗み見る。
 見違えるほど憔悴しきった娘は、生気を失った人のように後からついてきた。



(いや、いやいや、ちょっと、ちょっと………)
 杏珠は、ボックス席から更に奥へ消えていく男女を見ながら、心臓が高鳴るのを抑えることができずにいた。
(………やばいよね? これって絶対やばい展開だよね?)
 いやな汗が、じっとりと額を濡らしている。
 あの男は確かに、シャンブル・セパレーと云った。もちろんイタリア語はできないけれど、この言葉だけはなんとか聞き取ることができたのだ。
 “chambre separete”………―――フランス語で、直訳すれば「別室」。
 料亭などにある小部屋のことで、主に、人に聞かれたくない密談を執り行う時や、情事に使用する部屋のことなのだと、どこかで読んだ覚えがある。
「すみません、お勘定お願いします!」
 杏珠はそばにきたウェイターに叫んだ。

 ホテルの前でシュテファンと別れてから、幸い道に迷うこともなく、まっすぐ星螺たちの泊まるペンションに到着した杏珠だったが、いくらノックしても誰も扉を開けに来なかった。仕方がなくてそこらをブラブラしていたところ、海辺の近くで星螺を見つけたのである。
 ――――――しかし、彼女は独りではなかった。
 杏珠は目を疑った。星螺と肩を並べて歩いているのは、昼間ビーチで見た、あの、彼女の肩を抱くようにして、どこかへ連れて行こうとしていた男ではないか。
 一瞬、杏珠は声をかけてみるべきではないかと思った。もしかしたら、星螺はまた困った事態に陥っているのかもしれない。
 しかし、そうできなかった。それは――――――彼女にまったく嫌がる様子がないどころか、男と楽しそうに話しながら歩いていたからだった。
 それでも、杏珠はほとんど無意識のまま、こっそり二人のあとを尾けていた。
 ひょっとしたら、単なる好奇心だったのかもしれないが………彼女の本能は、星螺の行方を放っておいてはいけないと警鐘を鳴らしていたのである。
 男と星螺は、ほど遠くない洒落たレストランへ入っていった。
 杏珠もすかさず入店する。二人が奥の席に就いたのを見届けて、彼らからボックスをひとつ隔てたテーブルに座を占めた。ちょうど、星螺に背中を向けている格好である。男には自分の後ろ姿が目に入る可能性があるが、一瞬顔を合わせただけの杏珠を覚えているとは思えなかったし、高くて広い背もたれに、彼女の姿はすっぽりと隠されている。
 しかも幸いなことに、間のボックス席には客がいないので、ちょっと耳を澄ませば彼らの会話も聞くことができるのだ。――――――もっとも、二人とも耳慣れない言語で話しているので、杏珠にはひとこともわからなかったが。
 二人が食事を注文した様子だったので、杏珠もパスタとワインを頼んだ。
(やだな………――――――あたしったら、一体何やってるんだろ)
 パスタを頬張りながら、自分に呆れかえる。
(星螺のプライベートじゃん。はじめっからこういう予定があったのかもしれないし………)
 しかし、シュテファンは自ら杏珠に、星螺と夕食を共にすることを提案してきた。少なくとも彼は、星螺がこの男性と一緒にいることなど、まったく知らないはずなのだ。それが杏珠にはひっかかった。
 ――――――まさか、星螺が浮気?
 一瞬だけそんな考えが頭を掠めたが、杏珠はすぐにそれを否定した。
 ………こう云っちゃ悪いが、いくら美貌で色っぽいからといっても、シュテファンやイリアにくらべれば、あんなのはただの胡散臭いオジンだ。それに、杏珠が知るかぎりああいうタイプは星螺の好みではない。しかも昼間は、あたしに抱きついて助けを求めてくるほど、あのオジサンは彼女を怯えさせていたんだもの!
 彼らよりも先にパスタを食べ終わってしまったので、仕方なくコーヒーを注文する。
(案外、何事もないまま終わったりして………――――――)
 ため息が出た。しかし、何もないに越したことはない。このまま星螺が男と別れたらあらためて声をかけて、二人でどっか飲みに行こうかな………。
 そんなことを考えていた時だった。
 星螺の声音が変わったのだ。押し殺したような声が、緊張で震えている。
 相手の男の口調も、さっきとは少し違う気がする。
 言葉がわからない分、そのトーンの変わり方が耳についたのだ。
(え………? 何? 何?)
 杏珠は再び神経を研ぎ澄ました。
 ものの数分も話さないうちに、二人は連れ立って席を立ち、ウェイターに奥へ誘われて行ってしまった。その時の星螺の様子は………。
 ――――――いや、あれはただごとじゃない!

(………シュテファンさんに知らせなきゃ)
 慌ただしく勘定を済ませて、杏珠は外へ飛び出した。
 本当はシュテファンがどこにいるのかすらわからないのだが、なぜか直感でそう思った。あのまま店で張っていても、杏珠には何もできない。シュテファンにだって何もできないのかもしれないが、しかし、なんとしてでも彼にはこのことを知らせないといけないと感じたのだ。
(星螺………星螺、お願いだから、バカなことはしないでよ)
 杏珠は心の奥で祈りながら、シュテファンと最後に逢った場所へ駆けた。



「なぜ、セーラさんもここへ連れていらっしゃらなかったのです」
 シュテファンは思わず、唇のほうへカップを運ぶ手を停めた。ちょうど、色とりどりの焼き菓子が盛られた銀の大皿の覆いが取られ、デザート用の小皿が目の前に置かれたところだった。
 贅をつくした晩餐には、いったいどこから湧いてくるのか様々な豪華な料理が並び、濃厚なワインがそれによく合った。チリから取り寄せた逸品だと説明するイリアの眸と同じ、深い色合い………。
 しかし、シュテファンが勧められるままに舌鼓を打ちながら山海の珍味を堪能するのに対し、イリアはワインを嘗めるだけで、料理にはまったく手をつけなかった。
 こうなると、いよいよモンテ・クリスト伯じみている。自分が辞した後、彼は秘かにエメラルドのケースから、丸薬を取り出すのではなかろうか………――――――。
 それでも想像以上に会話は盛り上がって、カトリック教会やシュテファンの所属する修道会のこと、見聞きしてきた様々な土地のことなど、話題は尽きなかった。ワインのためにシュテファンは些か饒舌になっていたかもしれないが、酒が入ったからと云って、二人とも声が大きくなることも、低俗な笑い声をあげるこよもなく、穏やかで心地よい時間が過ぎていった。
 ――――――……そして今、部屋には黄昏の仄かな灯り忍び込み、濃厚なエスプレッソコーヒーの芳ばしい香りが漂っている。
「なぜって………貴方は、彼女が僕と一緒なのをご存知なんですか?」
 カップをソーサーに置くと、シュテファンは大皿からケーキを一切れ取り寄せた。
 例によって、イリアのほうはそれに手をつける気配もない。
「おや? 私が云ったのは、なぜ彼女をイタリアへ同行させなかったのかという意味ですよ。――――――それでは、セーラさんもこちらにおられるのですか」
 シュテファンは、例の微笑を浮かべるだけで何も応えなかった。
 さっきの質問は確かにどちらの意味にも取れるし、なるほど、シュテファンは彼にひとこともセーラが同行していることなど話していない。
 ………しかし、シュテファンは直感的に悟っていた。
 この男は、セーラがここにいることなど、初めから知っている。
「これはとんだ失礼をいたしました。それなら、食事に誘うなど無粋なことはしませんでしたのに」
「貴方こそ、アンジュさんがいるのに――――――」
「いえ、こちらのことはお気遣いには及びません」
 シュテファンの耳に、ふと、さきほどのアンジュの声が甦った。

“セーラをあまり独りにしておかないほうがいいですよ”
“とっても繊細な子だから。貴方が大切にしてあげて下さいね”

「あれは、私の子供なのですよ」
 ふとしたイリアの言葉に、シュテファンは眼差しを上げた。
「子供………――――――」
「さよう。とんだ出来損ないですがね」
 イリアは幽かに微笑を浮かべて、グラスのワインを味わっている。
 さすがにシュテファンも、これをどう受け取ったものか戸惑った。
 アンジュが、イリアの実の娘ということなのだろうか。しかし、こう云っては悪いが二人はまるで似ていない。アンジュの容姿は疑いようもなく生粋の東洋人のそれだが、イリアの容貌には、どんな民族的特徴も当てはまらないどころか、年齢まで見当がつかないのだ。外見だけで云うなら自分よりも若く見える。それならば、セーラと同年配の娘がいるというのは甚だ不自然だ。しかし、彼の“気配”とだけ対峙していると、ずっと年配の者のような――――――否、年齢などという定規では計れないほどの威厳をまとっている。まるで、神か悪魔だ。
 それとも、宗教的な結びつきや師弟といったニュアンスなのだろうか? 古くからの習慣では、司祭と信者たちは父親と子供たちに見たてられ、信者は司祭のことを「お父様」と呼び、司祭は信者のことを「息子よ、娘よ」と呼んでいる。
 ――――――いや………きっと、彼が云っているのは、どちらの意味でもないのだろう。
 自分でなくとも、ごく普通の“人間”には、想像もつかない事情があるような気がする。
「………そういえば、さっきホテルの前でアンジュさんに会ったんですが」
 コーヒーを一口含んでから、シュテファンは何気ないふうに口を開いた。
「昨夜………あんなことがあって、彼女もそうとう衝撃だったと思うんですが………大事に至らなかったとはいえ、また独りで町に出たりして、大丈夫なんでしょうか」
 単に、アンジュの心の傷に想いが及んで出た言葉だった。独りで散歩に出ようとしている彼女の身も心配だった。だからこそセーラの許へ行くよう勧めたのだ。
 しかしふとイリアの顔を見て、シュテファンはハッと息を呑んだ。
 黄金の髪の間から覗いている片眼は、今までとは比べ物にならないほどの鋭さを帯びて、シュテファンの眉間を貫いていたのだ。
「――――――あれのことなら、貴方の心配は無用だ」
 その唇から洩れた声も、ずっと低くて深い。
「先夜の場合は、俺はわざとあの子を貴方の手に委ねたのだ。そうでなければ、俺自身があの場に出向いていた。誰にも我が子は傷つけさせない」
 全身から放たれる気配は無限の宇宙空間にも似て、ちょっとでも気を緩めれば身体ごと粉々に砕けてしまいそうな、凄まじい気魄である。
 ――――――この男は………――――――。
 シュテファンは黙ったまま、じっとイリアを見返した。
 その魔性とも神性ともとれる彼の本性に、あのうら若い女性への、迸るような愛情と狂おしいほどの憧憬が満ちているのが、垣間見えた気がしたのだ。
「それならば、むしろこちらが訊ねたい。貴方こそ、なぜ彼女を独りにしておいた?」
 シュテファンはわずかに眉を上げた。なんのことだろう。
「今日のうちに貴方は二回、彼女を置き去りになさった」
 彼女と云うのがセーラのことならば、確かに、自分はビーチで一度、そして今、彼女を独りにしているから、そういう意味では正しい。
 しかし一度目は飲み物を確保するためで、彼女の許へ急ぐ僕を引きとめたのは、ほかでもないこの男自身だ。今だって、彼に誘われさえしなければ、僕はセーラと一緒に過ごしていた筈だのに………。
 ――――――なぜ、そんなことを?
「俺が云っているのは、物理的なことではない。貴方は二度、心の中に隙をつくった。思いがけない出来事というのはそんな心の隙間をぬって、この、下らない素粒子で出来上がった世界に、同じ次元となって顕れるものだ――――――それがわからない貴方でもないだろう」
「………――――――」
 イリアは血の眸を逸らすことなくシュテファンを捉えたまま、身を乗り出して囁いた。
「愛しい存在ならば、片時も心の目を離してはいけない」



 星螺は、混乱していた。
 ただでさえ、シュテファンと杏珠の待ち合わせを目撃して気が立っているところに、夕食を共にしたロベルト神父から、自分たちを隠し撮りした画像を見せつけられた。神父の口ぶりは、明らかに脅迫めいている。つまりは自分と何か取引しようというのだろうか。
 そして、己の軽率さを死ぬほど悔いた。
 ――――――本当は、夕食の誘いに肯いてしまった時、ずぐに「しまった」と思ったのだ。
 あの時の心理状態は自分でもよくわからない。ただし、ビーチでナンパから救い出して貰った時のことや、泣いていた直後に優しくされたこと、――――――そして………――――――彼の、明らかにこちらを女性として意識しているとわかる眼差しや物腰が、影響していたことは否めない。
 自分のことながら反吐が出そうだ。
 よりによって、ロベルト神父の媚に酔っていただなんて!
 だいたい、この人はペドフィルでホモだのに!
 ………いや、そんなことより、シュテファンになんて詫びたらいいのだろう………?
 だからこそ、一刻も早くこの男から逃れられるように………夕食さえ終われば、何か理由をつけてさっさと帰るつもりで我慢していたのだ。
 一度、刹那的な迷いから目が醒めてしまえば、ロベルト神父の相手をするのは苦痛でしかなかった。価値観も違えば嗜好も違うし、だいたい、そんなに魅力的でもない。
 失礼にならない程度に、適当に合わせてやり過ごそうと思った。
 それが………ああ、いったいどういうことなんだろう?
 いったいいつの間に、あんな写真を?
 ロベルト神父のスマートフォンに映し出されていたのは、真白な浜辺を背景に肩を並べて立っている、水着姿の自分とシュテファンだった。つまり彼はセーラに声をかける前から、彼女がシュテファンと一緒であることを知っていたのだ。知った上で、独りきりになった自分に声をかけてきたのだ!
 先に立って歩くロベルト神父につづきながら、星螺は必死で冷静さを取り戻そうとした。
 とにかく、ここで私が取り乱してはいけない。
 この男の切り札は、携帯の中の画像一枚きり………まだ何か、突破口がありそうだ。
 そうこう考えているうちに、ウェイターが立ち止まって扉の鍵を開けているのが目に入って、星螺はおやっと思った。神父は場所を変えると云っていたから、てっきり外へ出るものだとばかり思っていたのに………あんまり衝撃を受けていて、店の奥へ導かれているということすら認識していなかったのだ。ああ、大丈夫かしら、私。
 扉の先には、こじんまりとした部屋があった。
 小さなテーブルとソファには、すでにケーキとコーヒーの用意がされていて………なんと奥には寝台まであるではないか。少なくとも、星螺たちが泊まっているペンションの寝室よりは、広くて豪華な印象である。
 促されるままに中へ入ると、ウェイターが一礼して扉を閉めていった。
 ロベルト神父は機嫌よく鼻唄を歌いながら、ソファに腰を下ろして脚を組んだ。そして、黙って立ちすくんだままそれを見つめている星螺に、にっこり微笑んで見せた。
「さ、そんなところに立っていないでお座り下さい。貴女のために、本格的なイタリアン・コーヒーを注文しておいたのです。冷めてしまわないうちに、さあ、どうぞ」
 星螺は少し躊躇したが、仕方なく、神父が腰かけているソファの端に浅く腰かけた。他に座れるところがなかったのだ。
 ある意味、性愛の対象が同性の少年であるロベルト神父が相手であるのは、この場合メリットなのかもしれなかった。自分がそうした辱めを受ける気づかいはないが、それでも、警戒はしておいたに越したことはない。
「この店のティラミスは、自家製だそうですよ」
 ロベルトは屈託なく話しながらふたつの小皿にケーキを取り分けて、自分はさっそく一口かぶりついている。
「うむ、これは美味い。うちの国にあるまがいもののティラミスなどとは大違いだ。これなら貴女のお口にも合うでしょうな。さ、遠慮なく召し上がれ」
 星螺は黙ったままコーヒーを一口飲みこむと、男に鋭い眼差しを向けた。
「――――――何がなさりたいんですか」
 ケーキを頬張りながら、彼は眉を上げた。
「貴方は、シヴァビンスキーさんと私が一緒にいるのを見て、撮影なさった。そして、それをタネに脅迫じみたことを仰ったわ。まるで何か私に要求でもなさって、それを私が飲まなければ、その画像を彼の勤務先へ送りつける、すると彼にとっても私にとっても困ったことになるだろう、というようなことを………――――――」
 慎重に言葉を選びながら、声が震えないようにお腹に力を入れて、星螺はつづけた。
「いったい貴方がどういうおつもりなのか、私にはいまいち理解できません。しかし仮に、今私が申し上げたことが真実であるならば、お門違いも甚だしいと申し上げるほかございません。なぜなら………シヴァビンスキーさんにも、私にも、何も疾しい行いや気持ちはないからです。さっき、貴方はなぜそれを云わなかったのかとお訊ねでしたが、やはり、悪戯に人目につくのはよくないと考えたためです。しかしそれも、私の独断。シヴァビンスキーさんは、誰に私と一緒にいることを知られたところで痛くも痒くもないでしょうよ。それに、たとい貴方がその画像を送信されたところで、単に二人一緒に浜辺にいる画像でしょう? いったいどうやって、そのたった一枚の画像から、彼が聖職者として禁忌を犯していると証明なさるおつもりなのですか? 私たちがまっこうから否定すれば、その写真も意味を持ちませんわ」
 ロベルトは神妙に星螺の話を聞いていたが、彼女がここで言葉を切ると、不敵な笑いを浮かべた。
「さすがに頭のいい方だ」
 わざとらしくソーサーを手に持ち、コーヒーを啜ってから、彼は言葉をつづけた。
「まず、私の心づもりですが、貴女が想像されたとおりです。私はこの画像を使って貴女と取引しようとしているんですよ。そして、さっきお見せした画像だけでは証拠不十分というのも、貴女の仰るとおりです。あれだけでは私の望みを叶えることはできませんな」
 神父があまりに落ち着いているので、星螺は胸がザワザワしてきた。
 しかし無理にそれを抑えて、つとめて冷たい口調で返答する。
「そうですか。それなら、私にはその取引とやらに応じる必要はありませんわ。どこにでも画像を送ればいい。私、帰らせて頂きます」
 立ち上がろうとした時、不意に、男の手に腕を掴まれた。
「まあまあ、そう急がずに………もう少しゆっくりして行きなさい」
「放して下さい。もうこれ以上、ここにいたくありません」
「そんな冷たいこと云わずに」
「いやです!」
 力任せに腕を引っ張った反動で星螺は足をもつれさせ、ソファの、ロベルトのすぐ横に倒れこんでしまった。あっという間に肩に男の腕が回されて、しっかと抱きすくめられる。
 なおも抵抗しようとする星螺の耳許で、神父が囁いた。
「写真がこれだけでなかったとしたら、どうです?」
 ――――――これだけでは、ない………?
 頭が真っ白になった。それは………どういう意味だろう。
「ご自分でお確かめになりますか?」
 ロベルトは腕の戒めを解き、星螺に自分のスマートフォンを手渡した。
 あまりに手が震えるので画面の操作に手間取ったが、なんとか画像フォルダを表示させる。
(――――――………嘘………!――――――)
 そこには、信じられないものがいくつも並んでいた。
 浜辺だけではない。
 あの、宿泊先のペンションから、肩を並べて出入りしているところ。
 海辺で一緒に夕闇を眺めているところ。
 レストランで食事しているところ。
 果てにはプラハで、シュテファンが車で自分を拾っているところまで………。
 おまけにまるでグラビアみたいな、彼と待ち合せて佇んでいる自分の写真も数枚あった。
「そんな………そんな………――――――」
 激しい目眩がした。
 それでは………それではこの男は、最初からずっと私たちを尾けていたというの? こちらの行動をすべて監視して、チャンスさえあればシャッターをきっていたの?
 こんなの………普通じゃない。
 星螺は吐き気を覚えた。今までのシュテファンとの美しい時間が、ずっと、この狡猾で醜い獣に魅入られていたのかと思うと、絶叫したい気持ちだった。
「これだけ一緒に行動を共にしていて、“何もない”と証明するほうが難しいのではありませんか? いや、さっきも云ったが、貴方がたの仲がどんなものかというのは実際どうでもいい。………しかし、貴女は彼の勤める学校のことをよくご存知のはずだ。または、あの神父を贔屓にしている、町の有力者でもあるご婦人がたの性格もね」
 これは、神父の云うとおりだった。
 あのビーチの写真だけならば、顔も鮮明ではなかったしなんとか云い逃れのしようもあった。しかし、これらの他の画像と一緒となれば、話は違う。ものによっては表情まできれいに映っているし、共に並んでペンションへ入っていく姿など、とてもではないが、義理の父娘とか友人同士とか云い訳できるような雰囲気ではない。
 それに、いみじくもロベルトが指摘したとおり、彼が勤務しているミッションスクールは、規律を重んじるためというよりその面子を守るために、教授連や学生の行動には過敏なほど厳しかった。このロベルト神父が次々に男子学生を凌辱しながらも、高い地位を保っていたのは奇跡に近い。
 そして星螺の頭の中には、シュテファン神父を慕う多くのご婦人たちの姿が浮かび上がった。
 聖職者として彼を敬い慕うというよりも、彼女たちのシュテファンに対する好意は、日本だったら専業主婦たちの韓国俳優などへの感情に近いものだ。熱狂的に崇拝していたアイドルが、恋人を持ったり結婚したりするような時、それを祝福するファンばかりでないことはよく知っている。
 ただでさえ陰湿な嫉妬や憎悪を持ちやすい女性たちが、彼女らの“信頼を裏切った”美しい神父にたいして、どんな行動に出るかと思うと、星螺の背筋を恐怖が駆け抜けていった。
 本当にこれが、あの学校へ送られたら………修道会へ送られたら………?
 私はいい。
 しかし、彼はどうなるだろう?
 ――――――スキャンダルはスキャンダルなのだ!
 星螺は咄嗟に、スマートフォンを操作しようとした。
「この端末にある画像を消去しても、無駄ですよ」
 すかさずそれを押しとどめるように、ロベルトの指先が手の甲に触れた。
 たったそれだけの接触でも、星螺はビクリとして固まってしまい、何もできない。
 彼は腰につけているポーチから、小型のカメラを取り出して見せた。
「自慢のカメラです。解析度も高い。カメラマンでもあるシュテファン神父なら、さぞ貴女にもわかりやすくこいつの性能を説明できることでしょうね」
 そう云ってロベルトは皮肉を含んだ笑いを浮かべた。
「端末にあるのと同じ画像が、もっと鮮明に映っているはずですよ。………さて、どうしようかな。ミッション・スクールの公式メールに送信したものか。それとも、ドイツ騎士団修道会に現像したものを送りつけたたほうがおもしろいかな?」
 彼の口調には、明らかなサディストの色がある。とてもおもしろそうで、機嫌がいい。
 星螺は、いよいよ追いつめられてきた気持ちを抑えるために、コーヒーを飲み乾した。
「――――――いったい、私と何を取引しようというのか知りませんけど、私には自分の自由になるお金も財産も持っていませんよ」
「そんなことはわかったいる。だいたい、金なんか掃いて捨てるほど持ってますよ」
「それに、貴方のためになるようなコネクションもありません」
「ふん、そんなもの。今のポストにはおおむね満足してるんでね」
 余裕のロベルトが頭にきて、星螺は吐き捨てるように訊ねた。
「じゃあ………――――――何が望みなんです」
 彼は再び、あの官能的とすら云える眼差しで星螺を見つめた。
 もう、双眸の奥に燃える残虐な欲情の炎をもう隠そうとはしない。
「一時間ほど、ここで僕の相手をして下さればよいのです。そうすればすぐにでも、僕は貴女の目の前でこの画像をすべて消去しますよ」



 イリアとシュテファンとは、しばらく互いに見つめあったまま、動かなかった。
 まるで居合のような沈黙………どちらも彫刻のように微動だにしない。青緑色と赤色の眸だけが空中でぶつかり合い、冷たい炎を散らしている。
 ――――――しかし、最初に切なげな微笑とともに視線を逸らしたのは、シュテファンだった。
「………なんだか、羨ましいな」
 吐息の交る、静かな声。どことなく、すべてを諦めた人のような響きがあった。
「羨ましいとは?」
 眼差しは動かさないまま、イリアが問う。
「いや、なんでもありません。なんとなくそう思っただけですよ」
「云って下さい」
 笑って誤魔化そうとするのを、イリアの低声(バリトン)が即座に制した。
 落ち着いた声だが、やはり、こちらを威圧するような響きがある。
 食事に誘われた時と同じ――――――無理強いされているわけではないのに、拒めない。
 シュテファンは深く息を吐いた。
「いえね………アンジュさんは決して誰にも傷つけさせないと、そう仰ったでしょう。そういうことを云い切れる貴方が、羨ましいと思ったんですよ」
 とっくに冷めてしまったコーヒーを飲み干す。相変わらずじっとこちらを見つめる血の眸を額に感じながら、わざと眼差しを逸らしたまま先をつづけた。
「貴方は僕を誘った時、僕たちに重なる部分があると仰った。そして、アンジュさんとセーラにも、共通するところがあると、そう云いましたね。彼女たちはそうかもしれない。アンジュさんのことはろくに知らないけれど、貴方の云わんとしていたことは、理解しているつもりですから。でも………――――――僕と貴方は違う」
「なぜ、そう思うのです」
「僕には貴方みたいに、愛する存在を守り切れると云えるだけの、根拠も自信もないんですよ。そもそも、僕は誰かを情熱をもって愛する力を失ってしまいました。せめて、あと十歳でも若ければ、何か違ったろうに………もう、遅い。遅すぎる………――――――だから、」
「本当にそう思われますか?」
 思わずシュテファンは相手の眼を見てしまった。
 そうさせずにはおかない声音だった。
「本当に?」
 イリアの眸は、相変わらず血の色をして暗かった。
 しかし、唇の端をきゅっとあげて、皮肉っているような、軽蔑しているような、おもしろがっているような微笑を刻んでいる。
「確かに人間というものは、自分のことほど知っているようで知らない生き物だ。――――――もうじき貴方も、自分というものを知る機会を得るでしょうから、とっくりと味わうことですな」
 意味がわからずシュテファンが眉根を寄せたと同時に、背後から誰かが近寄る気配がした。
「アザゼル」
 思わず振り返ると、自分をここへ案内した例のベルボーイが、恭しく胸に手を添えて立っていた。
 おかしい。確かに、扉の開く音も閉まる音も聞こえなかったのに………。町中でイリアが現れた時と同じく、突然、そこに湧いて出たような不思議な出現だ。
「どうだ、進行具合は?」
 イリアは特にそれを気にする風もなく、グラスに残ったワインを舐めている。
 アザゼルと呼ばれたベルボーイは、あの海色をした眸を輝かせ、翳のある微笑を浮かべた。
 ひょっとしたらこの青年は、イリアが個人的に召し抱えている人間か、精霊の類なのかもしれない。
「ちょうどよき頃合いかと存じます」
 満足そうに頷くと、イリアは再び眼差しだけでシュテファンに向き直った。
「シュテファンさん………貴方とお話しするのはとても楽しいが、そろそろお別れの時間です。短い間でしたが、ご一緒できてたいへん光栄でした。追い出すようでとても申し訳ないが、この男についておいで下さい。貴方を出口まで送り届けさせましょう」
 突然の言葉に戸惑ったシュテファンだったが、イリアとアザゼルの会話から、この後何かイリアに予定でもあるのだろうと思って、素直に立ち上がった。
「こちらこそ、どうもありがとうございました。また機会があればお逢いしましょう」
 エレベーターの乗り口まで見送りに出てくれたイリアへ、右手を差し出す。
 ほとんど無意識のうちの、習慣的な挨拶の行為。
 しかし握手に応えたイリアの片手に触れた時、彼が手袋をはめていたこと、そして、布の下にある手になんの温もりもなかったことが、シュテファンにはいつまでも忘れられなかった。



 彼女はしばらく、云われたことの意味がわからない様子だった。
 きょとんとしてこちらを見つめている。
 表情はまるで、人間の言葉がわからない、いたいけな獣か鳥のようだ。
「――――――………相手って………何の?」
「何の、って」
 ロベルトは軽い笑い声を漏らした。
「こういう場合、若くて美しい女性に男が要求することなど、相場は決まっているでしょうが。――――――まさか、それがわからないなんて仰るのではありませんな」
 セーラは一瞬、両目を大きく見開いた。
「………なっ、………」
 ようやく理解したらしい。一瞬にして、顔から首筋までが燃えるようにさあっと赧くなる。
 ロベルトが座ったまま微かににじりよると、彼女もソファの上で後退した。
「何を………貴方………貴方、聖職者でしょう」
 震える声でそう云われて、ロベルトはまた嗤った。
「それがお前に云えた科白か?」
 再び、にじりよる。
 セーラはもっと退がろうとして、ソファのひじ掛けにぶつかった。
「品行方正な教師であり、神の僕たるシュテファン神父を誘惑したのは、当のお前じゃないか」
「だから………私と彼はそんなんじゃ………――――――」
 ロベルトに見据えられて、セーラの身体は動かない。まるで、蛇に睨まれた蛙だ。
 それでも、男の指先が頬に触れるか触れないかのところで、サッと身を翻し立ち上がった。はずみで腰がテーブルに当たり、コーヒーカップが音を立てて倒れる。
 ロベルトも捕食動物の俊敏さで立ち上がり、彼女をソファの後ろへ追い込んだ。
「――――――………冗談はやめて下さい」
「俺が冗談を云っていると?」
 ソファを挟んで対峙する二人は、どちらも息が上がっている。
 それは、恐怖のため? それとも、興奮のため?
「俺は、この日をずっと待っていた………」
「いやです………」
 隙を見て扉へ逃れたいセーラ。
 その道を塞いでいるロベルト。
 止まっては睨みあい、相手が少しでも動けばこちらも動く。
 ――――――緊張が高まる。
 唐突にセーラがパッと駆けだした。ソファを大きく周って部屋を突っ切ろうとする。
 しかし、テーブルの脚に爪先をひっかけて身体が傾いだところを、すかさずロベルトが抱きとめた。
「大人しくなさい」
「いやです、いやっ、いやあっ!」
 必死に抵抗するが、逞しい腕はびくともしない。
「やめて! ………――――――さもないと人を呼ぶわ」
「静かにしろ」
 ゾッとするほど冷たい声に、セーラもびくっと全身を硬直させた。
 男の腕の中で、黙ったまま無様なまでに震えている。
「――――――………何も、乱暴をしようというのではない」
 ロベルトはゆっくり戒めを解くと、優しく彼女の片手を取り上げた。
「貴女がこの取引に応じないというのなら、それだけの話です」
 そのまま、もう片方の手で扉を示す。
「扉にも鍵はかかっていない。貴女は自由だ。出て行きたければ、どうぞお好きなように………」
 呆然と震えながらそれを聞いていたセーラは、握られている手を振りほどくと、自分のハンドバッグを取るために、慌ただしい身振りでソファのほうへ向かった。
「――――――………ただし」
 その後ろ姿を見守りながら、ロベルトはつづける。
「貴女が退室すれば、私にはすぐにでもこの画像を関係者へ送信する。それに………貴女がシュテファンに直接このことを話そうと話すまいと、貴女が私と一緒に自ら進んでこの部屋へ入ったことは、いずれ彼の耳に入るだろう」
 ちょうど扉の取っ手に手をかけようとしていたセーラが、勢いよく振り返った。
 さあっと顔が蒼ざめていくのがわかる。
 ロベルトは幽かに嗤った。
「それを聞いた時の、あの男の顔が見たいものだな」
「――――――………卑怯者………」
 まるで死霊が呻くような声がした。
「卑怯者! 卑怯者! 貴方は悪魔よりも穢いわ、汚らわしい、汚らわしい!!」
 嫌悪も憎悪もむき出しに叫びながら、セーラはロベルトに向かってきた。
「それがどうした?」
 自分の胸に振り上げられた女の拳を捕える。
 彼女でもこんな顔をするのか………それも、あの男への愛が為せる業か?
 ロベルトの声も興奮に掠れはじめた。
「お前が俺を憎むほど、そうやって蔑んだ眼で見つめるほど、俺はお前が欲しくなる。愛情や快感のためよりも、痛みと屈辱に洩れる苦悶の声のほうが、俺を燃え立たせる………」
「蛇! 悪魔! 変態のペドフィルのくせに!!」
 抱きすくめた腕の中でもがく女の身体が熱くなる。
「あまり騒がないほうがいい。誰かが聞きつけたらどうする? どの道、お前の大事なシュテファンはこのことを知るのだぞ」
 きっと男を見上げる双眸には、美しい水滴が浮かんでいた。
「わかるか? お前にはもう逃げ道はない」
 ――――――しばらくの間、セーラはただ唇をわなわなと震わせていた。
 そんな女の顔を、ロベルトの射るような鋭い、冷たい眼差しが捉えている。
 ………いったいどのくらいの時間、そうしていたかわからない。
 次第に彼女の眼差しから抵抗の意志が消えていくのをみとめて、ロベルトは囁いた。
「………どうする。イエスか、ノーか?」
 それがとどめとなって、セーラはがっくりと頭を垂れた。
 承諾を示すために頷いたというより、力を失ってうなだれたようだった。
「――――――………よし」
 ロベルトは彼女の肩を抱いたまま、寝台のほうへ誘(いざな)った。
 罠に捕えられ、さんざんの抵抗もむなしく、敗北した獲物。しかし愛する男を守るため、健気にも苦痛と屈辱に耐えようというのか。
 そんな姿を見ていると、なおのこと欲望が掻き立てられる。
 それは――――――これからの行為が終わった後、より深く、修復のしようもないほど傷ついた彼女の姿が見えるから………そして、殺したいほど憎く、壊したいほど愛しい男が、同じだけ傷つく姿が見られるからだ。
「………覚悟はいいな」
 セーラは頷かなかった。
 俯いたままぶるぶる震えているのは、咽び泣きそうになるのを必死に堪えているらしい。
 ――――――壊してやる。
 あいつの大切なものは、すべて破壊してやる。
 そうしてあいつの偽善に満ちた優しさも美しさも、すべては不毛なのだと思い知らせてやるのだ。
 そのままロベルトは、突き飛ばすようにセーラをベッドに放り出した。




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