神父たちのバカンス事情



5

 最後に拒む間もなく男の身体が覆いかぶさってきたのと、突き破るように扉が開かれたのとは、ほとんど同時だった。
「――――――セーラ!!」
 次の瞬間、盛大な破裂音がして、自分を組み敷いていた黒い影がふっとんだ。
 何が起きたか分からないまま、急いで頭を起こした星螺の目にまず飛び込んできたものは、ベッドの横にうずくまるロベルトの姿だった。低く呻きながら頬を手で押えている。
 そして、――――――その前に立ち尽くすひとりの男。
 荒々しく肩で息を吐いている様は、全速力で駆けてきたか、怒りに我を失ったかのようだ。
 乱れた髪の間から、爛々と輝く双眸と、何かが信じられないというか、大きなショックを受けた人のような、呆然とした表情が見え隠れしている。
 星螺には一瞬、それが誰だかわからなかった。
「シ、………――――――」
 ――――――嘘だ………まさか、………まさか。
 それは、ビーチでロベルト神父と対峙した時以上の衝撃だった。
「………シュテファン………――――――」
 無意識に喉から洩れた掠れ声に、彼はゆっくり振り返った。
 どこか焦点の定まらない眼差しが、じっと自分を見おろしている。
 星螺も言葉を発せないまま、身じろぎもせずに呆然と彼を見上げていた。
「――――――………これは、これは………………」
 沈黙を破ったのは、ゆらりと立ち上がったロベルトだった。
 手で押さえていた側の頬が、真っ赤に腫れあがっている。
「久々に会う友達への挨拶にしては、馬鹿に乱暴なことをするじゃないか、シュテファン?」
 頬をひきつらせながら浮かべた皮肉な笑みは歪んで、まるで悪魔のような形相である。
 ここで星螺は、ようやく何が起きたかを理解した。………殴られたのだ。
「君が暴力を振るうような人間だとは思ってもみなかったよ。恋とはまったく恐ろしいものだな」
「――――――黙れ」
 星螺はさっと背筋が凍った。
 墓の中から響いてくるようなくぐもった声は、確かにシュテファンの口から出たものだ。
「彼女に何をした。まさか、もう………――――――」
「落ち着けよ。まだ何も始まっていなかったことくらい、これを見ればわかるだろ?」
 嘲笑を含んだ眼差しで舐めるように見つめられて、星螺はハッと自分の姿を見おろした。
 一瞬のことだったような気がしたのに、キャミソールは捲りあげられ、腹やブラジャーに覆われた胸が露わになっている。確かにショートパンツに乱れはないから、ロベルトの云うことももっともではあるものの、とてもじゃないが、何もなかったと云い訳できる格好ではない。
 羞恥と憤りで真っ赤になりながら、慌てて衣服を直した。
 ――――――確実にシュテファンにも、こんなあられもない姿を見られてしまったのだ。
 彼が現れたことが、幸いだったのか不幸だったのか、今の星螺にはわからない。
「よくも………しゃあしゃあとそんなことが云えたな。ここに連れ込んだのはお前だろう」
「君は何か勘違いしているらしいな」
 シュテファンの声が明らかな怒気を含んでいるのに対し、ロベルトは、あからさまな嘲りと蔑みを隠そうともしない。
「この女性を夕食に誘ったのは、確かに僕だよ。昔の教え子だからね………久しぶりに逢って懐かしくなった。ただそれだけだ。僕だって賤しくも聖職者だからな。――――――しかし、ベッドに誘ってきたのは彼女のほうだぜ」
 星螺は何も云えずに、呆然と二人の会話を聞いていた。
 すべての感情の流れが止まってしまったみたいだ。
 目の前で起きている出来事に、まるで現実味が感じられない。
「嘘をつくな。彼女がどんな娘かは、俺のほうがよく知っている」
「そうかね? 女はいろんな顔を持っているって云うじゃないか。こんな純情そうな風体をしていて、なかなかどうして、大胆なところを見せてくれたよ」
「セーラはそんなことはしない!」
 星螺の俯いたままの視界に、何かを押し殺そうとするかのようにきつく拳を握りしめ、細かく震えはじめたシュテファンの手が見える。
「さあな………かなり欲求不満がたまっているみたいだったぜ」
 再びチラリと星螺を横目で見たロベルトが、にやりと厭な笑い方をした。
「――――――君が夜は、あんまり構ってやっていないからじゃないのかね?」
 何かが切れたような気配がした。
 次の瞬間見えたのは、ロベルトの襟首を掴みあげ、拳を振り上げているシュテファンだった。
 星螺は思わず絶叫した。
「やめて、シュテファン!!」
 そして………――――――。

「――――――………そこまでですな」
 思わず目を固く瞑った星螺の耳に入って来たのは、想像していた人間の頬骨が砕かれる音ではなく、ぞっと鳥肌が立つような低声(バリトン)だった。
「落ち着きなさい。激情に自分を失ってはなりませんぞ」
 太陽を連想させる黄金の髪が、滝のように流れている。
 一度もシュテファンが袖を通しているのを見たことのない、漆黒の僧服(キャソック)。
 ギリシャ彫刻を思わせる美貌は、そのほぼ半分が包帯に覆われていた。
 ――――――この人は誰だろう。
 ――――――いったい、いつの間に現れたのだろう。
 この世のものとは思われないほど美しい男が、片手をロベルトの胸に当て、もう片方の手で、振り降ろされたはずのシュテファンの拳を受けとめていた。
「………………イリア神父」
 シュテファンが呆然と呟くのを聞いて、星螺もはっと息を呑んだ。
 イリア!
 いつだったかシュテファンと訪れたヴァチカンで、たった一目だけ逢った聖職者。
 杏珠からいつも聞かされていた、彼女の激しい憧憬と恋慕の相手………――――――。
 でも、彼がなぜここに?
「――――――これで、私の云ったことがおわかりになったでしょう」
 更に低い声で、イリアがシュテファンに囁く。
 いったい何の話なのか、星螺にはまるでわからない。
「あ、あんた………――――――いったい何だ」
 突然の他者の乱入に我を忘れていたロベルトが、唐突に疑問の声を上げた。
 イリアは相変わらず、意味深な血の色の眸をじっとシュテファンにあてている。
「こ、こ、ここは、私が用意させた部屋だぞ。勝手に第三者が………――――――」
「おお、これは失礼」
 ロベルトを振り向いたイリアの顔は、ぞっとするほど冷ややかだった。
「私の名はイリア。ヴァチカン市国にてカトリック教会司祭の職にありますが、同時にまた、このリストランテのオーナーにして、物件の所有者でもある者です」
 星螺は頭をがぁんと殴られた思いだった。彼の言葉は何を意味しているのだろう?
 それは、ロベルトも同じだったらしい。呆けたようにポカンと口を開けている。
「不審な声がすると当店のスタッフから連絡がありましてね。様子を見に出向いて参ったのです」
「不審な声………――――――」
「怒声や脅迫するような声、また、女性が助けを求める悲鳴などが聞こえるとね」
 ロベルトの顔が真っ赤になった。血の上ったために殴られた頬が更に膨張し、目を見開いた顔がひどく醜い。これではせっかくの美貌も形無しである。
「な、な、何を云うんだ。いったいどんな云いがかりか知らないが、私はただ、………とにかくこの女性とここで話をしていたら、彼女から誘惑されたんだ」
 星螺は俯いた。
 確かに、自分が脅迫されたという証拠なんてない。
 あるとしたら、ロベルトが持っている携帯電話とカメラの中の画像くらいだ。
 しかも、それは私を脅すために彼が撮影した、シュテファンと自分の画像………――――――。
「何か証拠でもあるというのなら、ぜひ見せて貰いたいものだ」
「証拠?」
 イリアが微笑んだ。
 さきほどまでの冷ややかな表情よりも、ずっと氷のように冷たくて、恐ろしい。
「お望みならば、いつでもご披露させて頂きますぞ」
「………っ………―――――――――」
 激昂のために真っ赤になっていたロベルトの顔は、あっという間に血の気が引いて、みるみるうちに蒼ざめてしまった。
「――――――お話のつづきは、別室で伺うこととしましょう」
 ちらりと背後に目を遣って、イリアは余裕で言葉をつづけた。
 そちらを見るといつの間にか、星螺たちをセパレーへ案内したウェイターが控えている。
「な、何を勝手なことを………――――――」
 反論を試みるものの、イリアの威厳に満ちた眼差しに気圧されて、ロベルトは口を噤んだ。しばらく彼の眼は、シュテファン、星螺、そしてイリアの間を行き来していたが、やがて、恭しくはあるものの有無を云わせぬ所作でウェイターに促されて、出口のほうへ背中を押されていった。
「私もすぐあとから参ります」
 そうイリアが声をかけたところで、ロベルトの姿は扉の向うへ消えた。
「――――――………イリア神父………………なぜ、貴方は………」
 シュテファンの呟くような呼びかけには応えず、イリアは別の方へ向き直った。
「セーラさん」
 未だにベッドの上に半ば横たわったままの星螺は、居住まいを正すことも忘れて、呆然とイリアを見上げた。――――――深くて、暗くて、すべてを呑みこんでしまいそうな眸。ロベルトのそれよりも恐ろしげなのに………その眼差しを受けとめるのに何の抵抗も感じなかった。
「あとのことは私どもにお任せ下さい。何もご心配は要りません」
 そう云って、微笑む。
 さきほどロベルトに向けたのとは違い、神々しいとも禍々しいとも云える、不思議な微笑。
 いつだったか初めて彼と逢った時も、確かこんなふうに笑いかけてくれた気がする。
「だからあの男が云ったことも、すべてお忘れになることですな」
 それから、美貌の神父はシュテファンにもその眼差しを向けた。
「………………これで借りは返しましたぞ」
 シュテファンは何も云わなかったが、微動だにしない顔の上を何かが掠めた。
「――――――あとはどうぞ、ごゆっくり」
 二人に向かって軽く会釈すると、イリアは僧服の裾と黄金の髪を翻し、静かに部屋を出て行った。



 たった二人きりで取り残されたシュテファンと星螺は、しばしの間無言だった。
 星螺は特に、シュテファンの顔をまともに見ることができずにいた。
 彼が今、何を考えているのか――――――気になるけれど、知るのが怖い。
 シュテファンが人を殴ったのを目の当たりにしたのも初めてなら、正気を失うほど怒りを露わにしたところを見たのも初めてで………どれも、星螺の知らないシュテファンだった。
 今でも、目の前に立ち尽くしているこの人が、あの温厚で柔和な男性と同じ人なのか、星螺には半ば信じられないような気持ちがする。
 理由のわからない涙が今にも溢れだしそうだった。
「――――――………なんで………………」
 最初にシュテファンのほうが、吐息とともに言葉を発した。
「………なんで、君があの男とこんなところにいるんだ」
 怒りや問い詰めるというより、呆れた響きのある白々した彼の云い方を聞いて、星螺は体中が凍りつくような痛みを覚えた。ロベルトに脅された時よりも、イリアの冷徹な微笑を見た時よりも、ずっとずっと、苦しくて痛い。
「――――――………――――――」
 何も云えなかった。
 何をどう説明したらいいのかわからない。
 いや、そうでなくても今のシュテファンに、何か云うのが怖かった。
 しかも、ここで………?
 応える代わりに、星螺は黙ったまま心もとなげにあたりを見回した。
 乱れたベッド。テーブルの上で倒れているコーヒーカップ。投げ出されたまま床に転がっている、自分のハンドバッグ………――――――。
 ここに、自分は迂闊にも小一時間ほど、あの男と一緒にいたのだ。
 イリアは心配要らないと云ったが、いったい何がどう心配要らないというのだろう。
 ここで何があったのか、あの男が星螺をどう脅し、何を要求していたのか、イリアは何も知らないのだ。――――――もちろん、シュテファンも。
 しかし、脅迫のことだけは、彼には口が裂けても云ってはいけない………!
「――――――僕よりも、あいつといるほうが楽しいのか」
 まったく予想していなかったことを云われて、星螺は弾かれたように顔をあげた。
 シュテファンの双眸は、相変わらずちっともこちらを見ていなかった。ロベルトを殴り飛ばしたあと一度だけ自分を見つめた青緑色の眸は、今はどこか虚空を凝視している。
「………シュテファン………」
「いいや、何も云い訳しなくていい。僕には、何かを君に制限する権利なんてないんだから」
 どこか自嘲的な響きがあるのは気のせいだろうか?
 ――――――そうだ、シュテファンは落ち着き払っている。きっと、ほいほいロベルトについていった自分のことを、ほとほと心から呆れかえって見ているのに違いない。彼は私のことなどで、嫉妬したり心を乱されたりしないばかりか、これっぽちも心配してはいないのだ。
「………でも、確かに君は僕以外の人と一緒にいるほうが明るいし、楽しそうだ。それがわからなかったのは僕の罪だろうが、それならそうと、僕がバカンスに誘った時か、それ以降でも、その気がなくなったのならちゃんとそう云って断ってほしかったよ。………だって、ここへは僕と来ているのに………失敬じゃないか」
 今度こそ、星螺のほうが呆れかえってシュテファンを見つめた。
 ――――――いったい、何?
 あの頭の中のどこをどう押せば、そんな意味不明な考えが出てくるわけ?
 その時、星螺は半開きの扉の向こうから、恐る恐るこちらを窺っている人影があることに気がついた。女性らしいまろやかなシルエット。生なりのボレロに、ふんわりしたスカート。見覚えのある、肩までのストレートの黒髪………――――――。
 それが誰かわかった瞬間、星螺の中で何かが、切れた。
「――――――何よ、その云い方………」
 抑えようのないものが、沸点に達したお湯みたいにぐらぐらと噴き出してくる。
 星螺の脳裏には、彼が楽しげに彼女と言葉を交わしていた情景が鮮明に蘇っていた。
 そうか………この人は今の今までだって、ずっと彼女と一緒にいたんだわ!
「いったい、何様だと思ってるの?」
 ベッドから立ち上がる。
 さすがに声音の気配が尋常でないのを察したのか、シュテファンがようやく振り返った。
 相変わらず、心ここにあらずといった焦点の定まらない表情をしている。
「いい加減にして!」
 その顔に向かって、星螺はあらん限りの叫び声で感情をぶつけた。
「貴方が私に、そんなことが云えた義理なの? 貴方なんか、一緒に来た最初の夜から好き勝手してたんじゃないの。きのうの夜も今日も独りで勝手に出て行っちゃうし、ビーチでは長いこと置き去りにするし………何よ、今までだって若い女の子と楽しんでいたくせに!」
 一瞬、シュテファンがひどく怪訝そうに眉を寄せたが、星螺は構わなかった。
「それなのに、私にはそういうことを云うの? 確かに貴方は私の恋人でも夫でもないわ。でも、私がどんなに、貴方とここに来て一緒に過ごすのを楽しみにしていたのか、貴方は知ろうともしないのね。もういいわ。どうせ、貴方にとっては私なんてどうでもいいんだって………そんなこと初めからわかってたもの!」
「ちょっ、………セーラ」
「いいわよ、もういい、もう知らない。貴方なんか大嫌い!」
 星螺は夢中でハンドバックを取り上げると、泣きながら部屋を飛び出した。
 扉の外に佇んでいた杏珠が驚いて身を避けるのも、レストランのウェイターや客が見つめる好奇の眼差しも眼中に入れず、そのまま体当たりで外へ踊りだし、ひたすら走りつづけた。


「お待たせいたしました」
 セーラと過ごしていたのとは別のセパレーで、対面に腰をおろした人物を、ロベルトは不審と好奇の眼差しで興味津々と眺めていた。
 すらりとした体躯。踝まで届くほどの黄金の髪。褐色の肌。この世のものとは思われないほどの美貌は、その半分が包帯で隠されている。
 ………しかし、血のような色をした鋭い眼光を宿す眸は、異形の者というに相応しい。
 その声にも低くて魅惑的な響きがあり、思わず魂まで引き込まれてしまいそうだ。
 それでもロベルトは、ほぼ強制的に場所を移されてからの数分の間に自分を取り戻し、余裕のある冷静な態度で、“自称”聖職者、そして店のオーナーに向き合った。
「それでは、いったいどういうことなのか説明して頂きましょうか。貴方はさきほど、私があの女性と過ごしていたセパレーから、不審な声がすると連絡を受けたので、様子を見に来たのだと、そう仰いましたね?」
「確かにそう申し上げました」
 ――――――そういえばさっき、シュテファンは彼のことを「イリア」と呼んでいた。
 旧約聖書に登場する有名な預言者の名前だ。
「ただし、僕にはそんな覚えはないのですよ。さっき申しあげたとおり、………本当は、こういうことを云うのはあの女性の名誉に関わりますから避けたほうがよいのでしょうが、こちらが疑われてはたまりませんからね。真実を申し上げる他にない………彼女と一緒に食後のコーヒーを頂いていたら、女性のほうから誘惑されたのです。僕もついふらっとなったが、そこへ、彼女に横恋慕しているらしい男が乱入してきた。それだけの話ですよ」
「ほう」
 イリアは眉ひとつ動かさずに話を聞いていたが、ロベルトが言葉を切ると、背後に控えていたさっきのウェイターに合図をした。
「――――――では、これはどういうことなのですかな?」
 その言葉と同時に、ウェイターがアイパッドの液晶画面をロベルトの目の前に掲げる。

『まあまあ、そう急がずに……もう少しゆっくりして行きなさい』
『放して下さい。もうこれ以上、ここにいたくありません』
『そんな冷たいこと云わずに』
『いやです!』

 ロベルトは、自分の目を疑った。
 そこに映し出されているのは、間違いなく、セーラとこの自分自身である。

『大人しくなさい』
『いやです、いやっ、いやあっ!』

「――――――お宅では、こうした盗撮が常識なのかね?」
 憤りに頬がひきつるのを感じながら、ロベルトは皮肉な笑いを浮かべてイリアを見た。
「盗撮ではございません。こうした場合に備えての危機管理です。当店では、ホールやキッチン以外にも、各セパレーに監視カメラが備え付けてありましてね」
 美貌のオーナーはしれっと答える。
 これではセパレーがセパレーたる意味がないじゃないかと突っ込みたかったが、声が出なかった。
「――――――しかし、これで貴方も否定できますまい。貴方はセパレーの用意を申しつけられ、共に食事をされていたご婦人とお入りになった。そして、彼女をご自分で撮影した画像によって脅迫し、性的な暴行を加えようとなさった………」
「失敬な!」
 ロベルトは叫んだ。
「これは飽くまでもこちらのプライベートな一件だ。あんたのような第三者が介入する権利はない!」
「権利がないですと?」
 再び、氷のようなイリアの眸に見据えられて、ロベルトはうっと言葉に詰まった。
「そこまで悪足掻きなさるのなら、申しあげましょう。まず、さきほども申しましたように、私はカトリックの司祭です。同じ聖職者として、貴方の行いは非常に情けなく思います」
 ロベルトは思わず眉根を寄せた。
 セーラやシュテファン以外に、この町で自分の正体を知る者はいないはずだ。
 なぜ、この見ず知らずの異形の男が、自分の職業を知っている?
「加えて、セーラさんとシュテファンさんは、私の大切な客人。よって、私もある意味当事者です」
 今度は頭を鈍器で殴られたような衝撃がきた。
 この男と、シュテファンやセーラが知り合い………? まさか。
「友人として、私がお二人をこの町へ招きました。心からおもてなしさせて頂きたかった。そんな大事なお方に貴方がなされた愚行は、とても見過ごせるものではありませんな」
「それはご立派なお志で………」
 ロベルトは失笑した。
「しかし、私ばかり責められるのはお門違いだ。あの男は入ってくるなり私を殴ったのだ。これだって立派な暴力じゃないか?」
「“片頬を打たれたなら、もう片方の頬も向けよ”」
 イリアの眸にも皮肉と嘲笑の色が浮かんでいる。
「――――――そう主が仰せになったのを、ご存知ないはずはありますまい?」
「それに、あの女はどうなんだ。彼女は聖職者である僕の友人を誘惑したんだぞ」
「その証拠がありますか?」
 相変わらず彼の眼差しは冷たく、声は淡々としていて余裕そのものだ。
「こちらの映像を見る限り、彼女はシュテファンさんとの恋愛関係を認めていません。貴方が勝手に二人の画像を使って脅迫しているとしか、私の眼には映りませんな」
 反論しようとして、ロベルトは再び声を詰まらせた。
 ――――――確かに、この男の云うとおりだ。
 セーラは最後まで否認しつづけた。最終的に俺の要求を呑むことを承諾したものの、だからといって、それがそのまま二人の間柄を決定づける証拠とはなりえない。
 まあ、いいさ………。
 ロベルトは内心でほくそ笑んだ。
 あの画像が手元にあるかぎり、セーラのことは、いつでもどうにでもできる。
 いっそ、彼女をものにするのは後回しにして、このまま画像を送信してしまおうか。
 その後の展開を想像しただけでもぞくぞくする。
 ――――――そうだ。何も、こんなイタリアくんだりで我を張ることはない。
 ここはまるくおさめてしまったほうがいいだろう。
「――――――まあ、私も魔が差したというか………出来心でしてね」
 溜息とともに、ロベルトはつとめてしおらしい声を出した。
「貴方も聖職者なら、異性の誘惑がいかなるものかはよくご存知でしょう?」
「まあ、確かにそのとおりですな」
 皮肉たっぷりな声が返ってくる。
「なんにせよ、貴方にはもう二度と、あのお二人に近づいて頂きたくありません。いつか再び今度のような事態があった時は、覚悟されておいたほうがいい」
「な、なんだと?」
 さっきまでの余裕もふっとんで、ロベルトは素っ頓狂な叫び声をあげた。
「どういう覚悟をしろと?」
「破門もやむを得ぬということです。………私はいつでも、法王閣下にこの映像をお見せして、貴方のことを申し上げることができるのでね」
 そう云って、イリアは胸元から紙を出し、ロベルトの前に差し出して見せた。
 今度こそ、ロベルト神父も頭を割られるような衝撃を避けることはできなかった。
 ――――――それは間違いなく、現法王フランチェスコ一世の署名の入った親書だった。



 ――――――いったい、どれくらい時間が経ったのか。
 星螺はコンクリートの堤防に頭を預けて、思いっきり泣いた。
 激情に身を委ね、声を上げて心ゆくまで泣き喚いた。
 そうしているうちに、傷つき鈍っていた感性も、再びもとの繊細さを取り戻したようだった。胸を焦がすような咽びも自然と止み、呼吸は穏やかになり、昨夜からの悶々とした気持ちも、不快な嫉妬心も、すべてのネガティブな感情が涙に洗い流された感じがして、心地よい。
 頬を撫ぜるように吹いてきた海風の中に、シュテファンの香りを感じ取った気がして、星螺は伏せていた眼差しを上げた。
 東南に開けている大海原の上に、藍色の強まろうとする空が広がっている。
 ――――――どこかで見た景色だ………。
 星螺はドキッとした。
 はからずもそこは、きのう、シュテファンと肩を並べて黄昏を眺めた場所だったのだ。
 深い刃が身体をつんざくような感覚のあと、再び、熱い涙が双眸から溢れた。
 自分をここまで弱めていたのは、シュテファン自身でも、杏珠でも誰でもいいが彼と関わる女性の存在でもない。彼のもっとも近くにいるようで、その実感を得られないことへのもどかしさと、自信の持てない己の非力さだったのだ。
「――――――………星螺………………」
 遠慮がちな静かな呼び声は、聞き覚えのあるものだった。
 涙が頬を流れるに任せたまま、星螺は静かにそちらを振り返る。
「………杏珠………………」
 やっぱりきれいだと、星螺は不思議な感動を覚えていた。
 杏珠は初めて逢った時と変わらず美しくて、星螺は、彼女がシュテファンを待ち合わせしていたのを目にした時、確かに、自分が彼女のそんな愛らしさと、自分が持ちえない色香を嫉んでいたことを自覚したのだが、今ではそんなことはどうでもよくなっていた。
 とにかく杏珠は愛らしく、星螺はこの友人が大好きだったのだ。
「そばに行っても、いい?」
 窺うような眼差しに小声で訊ねられ、星螺は微かに笑って手招きをした。
 昨晩、シュテファンとそうしたように、今は彼女と肩を並べて、黄昏の濃い空を眺める。
「――――――あたし………余計なこと、しちゃったのかな」
 ぽつりと隣の杏珠が呟いた。
「余計なことって?」
「あの、………あたし、シュテファンさんに………ね」
 彼女の唇から彼の名が洩れると、やはり星螺の胸はきりきりと痛んだ。
 杏珠の次の言葉が想像される。
 ――――――いや、聞きたくない!
 よほど話を遮ろうかと思ったが、少し迷った間に杏珠は言葉をつづけていた。
「………星螺が、あの男の人と一緒に、レストランに入るのを見たこと、それから………別の部屋へ連れて行かれるところを見たって、伝えに行っちゃって………」
「――――――………えっ?」
「いや、その………悪いことだとは思ったのよ。でも、なんとなく雰囲気が変な気がして………星螺にもし何かあったらと思ったら、あたし、気が気じゃなくて、それで………」
「杏珠、杏珠、ちょっと待って」
 星螺は思わず杏珠の両肩を抱いて、正面から彼女の顔を覗き込んだ。
「杏珠は………その頃、シュテファンと一緒にいたんじゃないの?」
「へっ?!」
 杏珠は豆鉄砲を食らった鳩みたいに目を見開いて、素っ頓狂な声をあげた。
「あたしとシュテファンさんが? ………なんで?」
「なんでって………だって、シュテファンは杏珠が泊まってるホテルの前で」
 そこで杏珠は、ようやく意味が分かったというふうに、ああと声をあげた。
「うん、逢ったよ。あたしが出掛けようとしてたらたまたま行きあったの。どこかに用事があるって云ってたけど。………そして、星螺と晩ご飯でも食べたらってすすめてくれたから、あたし星螺を探してたの。そのうち、星螺があの男の人と一緒にいるのを見かけて………――――――」
 そこまで話して、杏珠はあっと小さく叫ぶと、一旦口を噤んだ。
「そういえば、………これは何も、別に星螺に隠しておきたかったわけじゃないんだけど………」
 そう前置きをすると、杏珠はきのうの夜、暴漢に襲われそうになっていたところを偶然シュテファンに救われたことや、その時はわからなかったが、今日、ビーチで星螺の許へ歩いてくる姿を見て、あれがシュテファンだったことに思い至ったことなどを話した。
 また、ロベルトと星螺がセパレーへ案内されてからシュテファンを探しに行き、幸いホテルの前で、イリアとの会食を終えて出てきた彼に出逢って、無我夢中で目撃した一部始終を話してしまったことも………――――――。
 ――――――そういうことだったのか。
 星螺は深い溜息をついた。
 それなら、シュテファンに化粧品の匂いが移っていたことも、杏珠と親しげに話していたことも、そしてさっき、杏珠と一緒に駆けつけてきていたことも、すべて辻褄があう。
 考えてみれば星螺の懸念こそおかしな話だった。
 もしシュテファンが誰かとアバンチュールでも楽しむつもりだったのなら、最初から自分をバカンスに誘うわけがないし、そもそもあの堅物の純情男が、浮わついた真似のできるわけがないのだ。四年以上の付き合いの中で、そんな彼の性(さが)はよく知っていたはずなのに………――――――。
 仮にどこまでもシュテファンと杏珠を疑ってみたところで、杏珠が、星螺とロベルトのセパレー入りを見ていたのなら、同じ時間にシュテファンとどこかで過ごすのは不可能なのだ。
 しんみりと考え込んでいる星螺に、杏珠がまた口を開いた。
「――――――だけど、びっくりしたわ。シュテファンさん、あたしの話をおしまいまで聞かないで走りだしちゃうんだもん。必死であとを追いかけたけどめちゃくちゃ速かった。………あたしには、星螺がシュテファンさんと話してる言葉がわからないから、いったい何があったのか詳しくは知らないけど、でも………シュテファンさん、本当にあの時、理性も何もかもふっとんでたよ。星螺のことしか考えてなかった。何よりも星螺が大事なんだよ。それだけは………確かだと思う」
 星螺は目を閉じた。
 今、こうして冷静になってみると、わかる。
 やはりあれは、全速力で駆けてきたからあんなに荒く息をしていたんだ。
 私のために………必死で走ってきて、相手を殴るほど我を忘れて。
「杏珠………」
 星螺は無意識のうちに言葉を発していた。
「私、わからないの。あの時、………シュテファンを守るためなら、なんだってやれるって思った。それは本当よ。絶対、どんなことでも耐えられると思ったの。だけど………今考えてみると、たとえ私が要求を呑んだとしても、あの男が本当に約束を守ったとは思えない。スカルピアみたいに相手を思うように操っておきながら、約束も果たさなかったかも………ううん、ほぼ確実にそうしたと思う。それなら、私………死んでも抵抗したほうがよかったんじゃないかって………シュテファンにも、あんなふうに呆れられちゃうし………ひょっとしたら、すっかり幻滅されたのかも………私、私………どうすればよかったんだろう………――――――!」
「………星螺」
「元はと云えば、私のせいなんだもの。私があんな男の誘いに乗ったりしなければ」
 再び咽び泣きそうになって、星螺は口元を両手で覆った。
 杏珠の顔がみるみる視界の中でぼやけていく。
「………私………どんな顔してシュテファンに会えばいいんだろう。怖い………」
 震える背中を、杏珠の手が優しく撫でていた。
 いつだったか………森の中の自宅でも、こんなふうに慰めて貰ったっけ。
 喉をしめつけられる痛みの中でそんな回想に耽っていると、杏珠がそっと訊ねてきた。
「星螺………あたしの部屋に泊まりにくる?」
 一呼吸おいて、星螺は大きく肯いた。



 重々しい足取りで、シュテファンはあてどもなく街を歩きまわっていた。
 何度も、何度も、溜息が出る。
 ………今日、自分がしたことが、俄かには信じられない。
『――――――シュテファンさんっ!!』
 アンジュの悲痛な叫びが耳に蘇る。
 イリアとの晩餐を終え、アザゼルに見送られてホテルを出ると、いきなり、走ってきたアンジュとぶつかりそうになった。
 うまく声が出せないほど息の上がった彼女から、セーラが、不審な男にリストランテのシャンブル・セパレーに連れ込まれたと聞いたら、突然頭の中が真っ白になって、そのまま全速力で駆けだした。
 その男は、昼間もビーチでセーラに絡んでいたという。
 しかも、アンジュが声音からだけで判断したところによると、男はセーラを何かで脅かしていたようだとのこと。
 もう、何も考えられなかった。
 アンジュに教えられたリストランテに飛びこみ、セーラの気配を頼りにセパレーを見つけ出した。かすかに彼女の声と香りが漂ってくるのを感じ取ったのだ。
 相手が誰かも確かめないまま、彼女に覆いかぶさっている男を無我夢中で殴り飛ばした。
 自分のしていることが信じられなかった。
 これほどまでに、後先考えず衝動的な行動に出たのは、久しぶりのことだった。
 ――――――絶対、誰にも指一本触れさせたくない。
 ――――――絶対、傷つけさせたくない。
 相手を殺してでも守りたいと――――――その時は、それしか考えていなかった。
 そして同時に………昼間、セーラがアンジュと楽しそうに話しているのを見た時、感じた激しい気持ちの正体も、やっとわかったのだ。
 あれは、嫉妬だった。
 特定の対象を独占したい欲求から起る、執着の証。
 ――――――俺が、嫉妬する?
 この俺が………?
 信じがたいことだが、事実だった。
 セーラが、自分以外の人間と楽しげに、満足そうにしている。………それが堪らなく苦しかった。
 あの笑顔は、俺にだけ向けてほしい。俺だけを見ていてほしい。俺だけを愛してほしい。
 ――――――なぜ?
 いずれ彼女が、自分とは関係のない世界へ飛び立って行くのがわかっているから………。わかっているのに、その時が不安で不安で、怖くて怖くて仕方がないから。
 ああ、よけいにそれが恐ろしくなってしまうから、俺は自分の嫉妬心や執着心を、故意に無視しつづけてきたんだ。自分が傷つかないように。
 ――――――そうだ、イリアの云ったとおりだ。
 その「心の隙」が、今回の事態を招いてしまったんだ………。

 ――――――それにしても。
 シュテファンは吐息をついて、一時停めていた足を再び運び始めた。
 なんでセーラは、よりによってロベルトなどと二人きりでいたのだろう?
 なぜ、あんな男と夕食を共にしようとしたのか?
 ………他の人間ならともかく、俺がどれだけあの男に苦汁を舐めさせられたのか、どれだけあの男を嫌っているのかは、セーラもよく知っていたはずなのに。
 ――――――なぜ………?
 それを思うと、どうしても彼女に対する理不尽な憤りが収まらなかった。
 だからさっきも、本当は労わり慰めるべき彼女に、あんな心ない言葉を投げてしまったのだ。
 ………そう、それは確かに自分が悪い。
 セーラがなぜ、自分が女性と一緒にいたなどと云ったのかはわからないが、そのために彼女が傷つき、悲しんでいるのは事実だった。
 ――――――でも、それと同じくらい、俺も傷ついているんだ………。

 いったい、どこをどうやって歩いてきたのか。
 シュテファンは海の見渡せる場所に立っていた。
 ――――――どこかで見た景色だ………。
 一瞬考え込んだが、そのわけはすぐにわかった。
 ………ああ、ここは………きのうの夕方、セーラと黄昏を眺めた場所なんだ………。
 こうして立っていると、すぐ隣に彼女の身体と心の温もりが感じられるようだ。
 初めて逢った時から、懐かしくてたまらない香りを漂わせていた乙女――――――。
 シュテファンは大きく息を吸い込んだ。
 セーラの香りも一緒に感じられるような気がして、じっと眼を閉じる。
「――――――シュテファンさん………だっけね」
 いきなり声をかけられて、シュテファンははっと我に返った。
 すぐ背後に、黒髪で赤銅色の肌をした若い青年が立っている。
 ………どこかで見た顔だ。
「ちょっと話があるんですがね」
 青年は薄笑いを浮かべたまま、シュテファンのほうへ歩み寄ってきた。
 間近で彼を見たシュテファンは、あっと声をあげそうになった。
 ………この眸………大海原のような、真っ青な………………。
「アザゼルさんでしたね?」
 そう呼びかけると、青年は格好のいい眉をあげて、ひゅうっと口笛を吹いた。
「へえ、驚いたな。俺のこと覚えてたんだ」
 彼は今、ボーイの制服を脱ぎ棄てて、白いポロシャツにジーンズという出で立ちだった。
 服装だけでなく口調もぞんざいだったから、咄嗟にはわからなかった。
「まあ俺、個人的には、別にあんたと話したくもないんですけどね。主の命とあっては、断ることもできねえし………とにかく伝えますよ。あんたはただ聞いてりゃいいから」
 いかにも面倒だといったていで、アザゼルは豊かな髪に指を突っこんで掻きまわした。
「まず、あんたに見せるもんがある」
 彼はポケットからスマートフォンとデジタルカメラを取り出した。
「こいつは、あのロベルトとかいう神父が持ってたもんだ」
 そう云って、シュテファンにそのふたつを手渡す。
「主があいつと話してる隙に、俺がすりとってね。――――――まあ、データを見てみるんだな」
 促されるままに、まずはスマートフォンの画像フォルダを開いてみて、シュテファンはうっと呻き声をあげそうになった。
 ――――――なんだ、これは?
 まるでパパラッチがセレブリティを盗撮するようなアングルで、自分自身やセーラ、そして二人して一緒に映っているツーショットなど、何枚も何枚も画像が入っている。待ち合わせしていた時の画像や、ペンションに二人して入っていくところ、おまけに、ビーチで水着姿で並んで立っているところまで………――――――。
 ………まさか、これを………ロベルトが?
「デジカメも見てみろよ。おんなじような写真で鮮度のいいのが唸るほどあるぜ」
 アザゼルの云うとおりだった。
 こしゃくにもロベルトのデジタルカメラは、なかなかよい機能を持ったものらしい。
 否定したくてもできないほど鮮明に映された自分が、セーラが、収められている。
「………いったい何のために、彼はこんなものを………………」
「脅すためだよ」
 シュテファンの無意識の呟きに、アザゼルが答えた。
「脅す………――――――?」
「この画像をネタに、あの男、セーラを脅迫したんだ。トスカのスカルピアよろしく、小一時間くらい自分の相手をしなけりゃ、これをあんたの職場や修道会にバラまくってな」
 がぁんと頭の奥が鳴り響いた。
 そんな………――――――そんなことが………………?
 携帯とカメラを握る自分の手が細かく震えている。
「心配はいらねえよ。この画像、あんたに見せたらすぐに消去しろって、主に云いつけられてるからな。………それに主は、あいつがあんたがたに今後絶対何もしねえように、ばっちり釘を刺しといたから。きっともう二度とこんなことは起らねえよ」
 アザゼルの言葉を上の空で聞きながら、シュテファンの胸は鋭く痛んでいた。
 ――――――そうか。
 そのために、セーラはあの男を受け入れようとしていたのか。
 俺のために………俺をスキャンダルに巻き込まないように。
 彼女自身、とても傷ついていただろうに――――――きっと、死ぬほど悩み、苦しんだろうに………俺は………俺は、なんて思いやりのない――――――!
「行けよ」
 ハッと視線をあげると、アザゼルが呆れたような表情でこちらを見つめていた。
「痴話喧嘩の仲直りなら早いほうがいいぜ。セーラって意外と、大胆で思い切りのいい女らしいからな。小娘とどっこいどっこいだよ、まったく………」
 そしてひょいっと、シュテファンの手からスマートフォンとカメラを取り上げた。
「約束どおり画像は消しておく。そして、ロベルトが騒ぎださないうちにあいつの荷物に返しておくさ。――――――あとはあんたたちのほうで、これ以上盗撮されないように、せいぜい気をつけるんだな。俺はもう、こんなのに付き合うなんてまっぴらだぜ」
 ………口調は横柄だが、どこか憎めない青年だ。
 シュテファンは心からの笑みをアザゼルへ向けた。
「ありがとう。イリア神父によろしく伝えてくれ」
 そして、セーラが独りで待っているであろう宿泊先のペンションへと、急いで走りだした。




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