神父たちのバカンス事情



6


「――――――すごい」
 バスタオルを身体に巻きつけた星螺は、感嘆の溜息をついた。
「部屋もゴージャスだけど、まさか、こんなすごいお風呂があるなんて思わなかった」
 小さなプールほどの大きさはあるだろうか。
 美しい彫刻が飾られ、大理石の床に彫り込まれたバスタブには、澄みきった湯がなみなみと湛えられていて、乳白色の湯気をたてている。
「そうだよね。――――――でもあたし、もっと大きなお風呂、見たことあるよ」
 杏珠はそう云いながら、体の前部を隠していたタオルをバスタブの縁にひょいとおろして、湯の中へと階段を降りていった。星螺もバスタオルを取り去ってそれにつづく。杏珠と星螺、二人の成人女性がゆったりと手足をのばしても、バスタブにはありあまるほどの余裕があった。
「………気持ちいい」
 星螺は天井を見上げながら、ほっと息を吐いた。
 バカンス二日目の今日はいろいろなことがありすぎて、まるで一年も経ったような気がする。
 ほどよい加減の湯には、何かアロマオイルでも入れてあるのだろうか。不思議な、それでいて懐かしい香りがする。疲れきった心身にバルザムのように沁みて、すべての苦痛を和らげてくれそうだ。
「――――――ちょっとは、落ち着いた?」
 ぼうっと女神像を眺めていた星螺が視線を下げると、湯船の反対側から、杏珠の優しい眼差しがこちらを見つめていた。にっこりと笑って応える。
「うん。………ありがとう」

 杏珠に誘われて、彼女とイリアが泊まっているホテルのスイートルームにやってきた時、時刻はすでに午後の九時を回っていた。
 まず、ホテルのロビーから部屋への直通エレベーターに驚かされ、次に大きすぎる部屋と、贅沢な間取り、そしてゴージャスすぎる内装に肝を抜かれた。しかし意外なことに、杏珠と二人っきりでワインを飲んでいると、広すぎるように思われたリビングも非常に居心地がよくて、星螺が最初に感じた場違いな気まずさはきれいに消えてなくなった。
 同室しているはずのイリアがいつ帰ってくるか気がかりだったが、杏珠は「どうせ今夜だって帰ってこないわ」とてんで気にしていない。なんでも昨夜も杏珠が帰ってから、何も云わずにどこかへ消えてしまったのだという。
 ――――――………ううん、杏珠可哀そう………………。
 美味しいワインの力も借りて、星螺は杏珠に、今までのことを洗いざらい打ち明けた。
 シュテファンに旅行に誘われて、嬉しいと思うと同時に彼の心づもりがわからず悶々としていたことから、バカンス一日目の夜、シュテファンがいつの間にか出掛けていて、帰って来たら女性の匂いを移されていたこと、それが気になって眠れなかったこと。ビーチで声をかけてきたロベルト神父が、そもそも何者なのかということも、杏珠とシュテファンがホテルの前で談笑しているのを偶然見かけて、ありもしない妄想に取りつかれてしまったこと、嫉妬と何か自分でもわからない感情で、直後に受けたロベルトの誘いを受けてしまったこと、脅迫されたことも、その内容も、すべて、すべて………――――――。
 杏珠は何も云わずに、辛抱強く星螺の話を聞いてくれた。そして、シュテファンとのことを疑ってしまったのを心から詫びる星螺を、黙って抱きしめてくれた。こんな友人を持てたことを、星螺はあらためて心から神に感謝した。
 一通り話し、飲み、すっきりしたところで、二人は身体を清めることにしたのだった。
 昼間、ビキニ姿の杏珠を見た時もそう思ったが、彼女は本当に美しかった。
 ゆらゆらと仄かな照明に揺らぐ湯の中から、豊満な胸が見え隠れしている。赤子のように穢れがなくて、真白なしっとりとした肌。アップにまとめた髪の下にのぞくうなじが、女である自分の目から見てもとても色っぽい。ついついうっとりと見とれてしまう。
「――――――何?」
 あんまりしげしげと見つめてしまったからか、杏珠が眉をあげた。
「なんか、あたしの顔についてる?」
「――――――………ううん、ちょっと考えてたの」
 星螺はふふっと笑い声を洩らした。
「杏珠だったら、シュテファンを譲っても絶対嫌いにならないなって」
「はいっ?!」
 杏珠の叫び声がバスルームにこだまする。
「ちょ、ちょ、ちょ、星螺ったら………そんなこと云っちゃダメよ!」
「あはははは、冗談よ。それだけ杏珠のことが好きだって云いたかっただけ」
「あわわわわ………」
 真っ赤になって顎まで湯に浸かる杏珠を見て、星螺はまた明るい笑い声をたてた。
 今だったら、シュテファンにもこんなふうに笑いかけられるような気がした。



「――――――………――――――」
 もう十五分ほど、シュテファンは扉の前に立ち尽くしていた。
 時刻は、午後十時少し前だろうか。
 ペンションに帰って来た時は、まだ黄昏時で十分な明るさがあったが、すでに空気は夜の闇に溶けはじめ、今も、自分を照らしているのは共同キッチンにある小さなランプの灯りだけだ。これくらいの仄かな明りの中では、何か切なくて苦しい気持ちが募ってくる。
 アザゼルと別れたシュテファンはすぐにでも、セーラの許へ行って許しを乞うつもりでいた。
 ――――――しかし、彼女の姿がキッチンにもシャワールームにも見当たらず、寝室の様子をうかがっても物音ひとつしないことから、シュテファンはセーラが眠っているものと判断し、しばらくそっとしておくことにした。疲れきって熟睡しているのなら、それを起こすのは無粋も甚だしいというものだ。だからとりあえず、彼も持参した本を読んだり、自分の荷物を整理したりしていた。
 ………もし、今夜中にセーラが再び目覚める気配がなければ、明日だっていいんだ。
 そう自分に言い聞かせたが、時間が経てば経つほど、シュテファンはなんだか胸が苦しくなってきた。――――――あんなにお互い感情的になったことは、セーラと付き合ってきた四年の間ただの一度もなかったのだ。彼女もそうだろうが、自分もとても後味の悪い思いをしている。一刻も早く、彼女の笑顔を見て安堵したい気持ちだった。
 それに………それに………いったい、なんだ?
 どうも説明し難いが、何かもっと突き上げるような不思議な想いがあった。
 ――――――今朝の夢の中で体験したような感覚。
 それを今すぐにでも、現実にこの身体と心で実感したくてたまらなくなってきた。
 ………無粋をとおりこして、なんて情けない男なんだ、俺は。
 もう今夜はよして、俺も寝てしまったほうがいいんじゃないのか?
 でも………こういうことは少しでも早いほうが………――――――。
 そんな考えが頭の中をぐるぐるして、勇気を振り絞って彼女の寝室の前に立ったはいいものの、ノックすることもできず、ただただ中の気配を窺いながら立っていることしかできずにいた。
 ――――――いつまでこうしているつもりだ………?
 シュテファンははあっと大きく吐息をついた。
 そうだ………これでは何も始まらない。
 とうとう、彼は意を決して、目の前にある扉を拳で叩いた。
 こん、こん、こん………遠慮がちに、でも、しっかりと。
 ――――――しかし、何の応答もない。
 もう一度、シュテファンは扉をノックしなおした。………それでも、室内からは返事どころか、誰かが動く気配すらしなかった。
 それだけ熟睡しきっているということか?
 シュテファンは眉を寄せた。厭な胸騒ぎがする。
 ………いや、これは正体のなくなるほど眠っているというよりも………――――――。
 再び扉に耳を寄せて中の気配を確かめてから、シュテファンは思い切ってドアを開けた。
 中はほとんど真っ暗だった。
 それでも微かな黄昏の残光の中に、布団がキチンと整えられたベッドが寒々と佇む、人気のない寝室が浮かび上がっていた。
『セーラって意外と、大胆で思い切りのいい女らしいからな………』
 アザゼルの声が耳に蘇る。
 シュテファンは総毛だった。
 彼女は………つまり、セーラは自分がここへ帰ってきた時から、すでにこのペンション内にはいなかったのだ。もしかしたら、あのリストランテを泣きながら飛び出して行ってから、ここにはまったく帰ってきていないのかもしれない!
 ズキッと心臓が痛んだ。
 シュテファンは携帯電話だけをひっつかむと、そのままペンションを飛び出した。



「――――――………私、そろそろ帰らなくちゃ」
 大きなガラスの壁に身をもたせかけるようにして、一面に広がる地中海のパノラマを眺めていた星螺が、いきなりぽつんと呟いた。
「今? まだ夜明け前だよ」
 豪奢な臙脂色の幕でリビングと隔てられた寝室から、杏珠の眠たげな声が応える。
 時計を見ないとわからないが、まだ午前四時も回っていないだろう。
 眼下に見える町並みはしんと静まり返って人影もなく、建物の隅々には、未だに夜の置き土産のような黒い影が漂っている。しかし、今日も雲ひとつない澄み渡った空は徐々に輝きを増しており、水平線には最初の暁の便りみたいな黄金の筋が浮かびだして、天空の世界に迷い込んだかと錯覚しそうなほど、美しい情景である。
「うん、でも………戻らないと………――――――」
「まだ早いよ」
 上品なサーモンピンクのナイトガウンを羽織った杏珠が、絨毯の上をこちらへやってきた。
 どういうわけか、昨夜のうちに星螺のためのガウンもちゃんと用意されていたのだが、なんだか億劫な気がして結局袖を通さなかった。
「せめて、朝御飯くらい一緒に食べよう」
「ありがとう、だけどね………なんか、今行かないといけないような気がするのよ」
 星螺は真剣な眼差しを、海の上に光る暁の明星に注ぎながら応えた。
 成行きに任せて、昨夜の宿は杏珠の許に求めてしまった。二人で入浴した後、大きすぎるベッドの上で一緒にひとつの布団に潜りこんで、とりとめもなく他愛のない話をしながら夜を過ごした。小さい頃の、親しい友人たちとのお泊まり会を思い出して、星螺の心は和んだ。
 そうこうしているうちに、二人ともうとうとと甘い眠りに取り込まれていった。
 ………しかし星螺は、一時間もすると急に眼が冴えて、安らかな寝息を立てている友人の隣でいろいろと考え始めた。杏珠のお蔭で体と心の疲れがとれたためか、この二日の間に、自分やシュテファンの身に起きた出来事や、自分自身の気持ちなどを、冷静に俯瞰できるだけの余裕が戻っていた。
 そのうち、星螺はどうにも落ち着かなくなった。
 胸の奥がざわざわする。
 武者ぶるいにも似た、緊張と予感。
 誰かが、呼んでいるような………――――――。
 どうしても横になっていられなくなり、星螺は身なりを整えると、リビングの壁際に立った。
 一時の間は大自然の織りなす情景の美しさに、我を忘れて見とれていたが、それも長くはつづかなかった。――――――………帰らなければ。早く、彼のところへ戻らないと………。
「――――――………なるほど」
 そばからしげしげと星螺を見つめていた杏珠が、納得したような声を出した。
「やっぱり、シュテファンさんに逢いたいんだ」
 星螺はパッと首筋まで赤くなった。
「図星。一刻も早く仲直りしたいと思ってるんでしょ」
「いや、えっと………それもそうなんだけどね、ほら………心配してるかもしれないし………」
 シュテファンには、あれから何の連絡もしていなかった。
 メールの一通でも書いておこうかと思わないでもなかったのだが、どういうわけか、この部屋では星螺の携帯電話は電波が届かなかったので、そのまま諦めてしまった。もっとも、杏珠の話のお蔭で誤解が解けたとはいえ、彼の態度にはかなり腹が立っていたから、果たして電波があってもちゃんと連絡したかどうか疑わしい。
「――――――そうだね」
 杏珠もほっと溜息をつくと、星螺と並んで夜明けの絶景に眺めいった。
「………きれいね」
「うん」
 水平線の向こうでは、王の来訪を告げるファンファーレのように、どんどん黄金色の輝きが増していく。早起きのカモメたちが、あちらこちらに舞い踊っている。
「――――――………杏珠………」
「うん?」
「………ありがとう」
 星螺は友人を抱きしめた。この街で彼女が示してくれた友情を思うと、涙が溢れる。
「いろいろ、ほんとにありがとう。イリア神父も………感謝してるって、よろしく伝えて」
「――――――ん、わかった」
 向い合って手を握りあったまま、二人はにっこり笑いあう。
「………星螺」
 出口のエレベーターの前で背後から呼びかけられ、振りかえると、杏珠がにやっと笑った。
「がんばってね」
「………何を?」
「いろいろ!」
 ウィンクして見送る杏珠に笑い返し、星螺はエレベーターに乗り込んだ。



 ――――――いない。
 ――――――いない。
 ――――――いない。
 ――――――いない………。
 どこにもいない。
 もう、自分がどこをどう歩きまわったのかすら、記憶が定かでない。
 思いつく場所はすべて見てまわった。
 一緒に海を眺めた浜辺。食事をしたリストランテ。ロベルトとの一事が起きた店の周辺。ビーチ。
 たびたび、ペンションに戻ってきていないか確かめに帰ったが無駄足だった。
 先の夜、アンジュを暴漢が襲っていた治安の悪い街角も、すべて覗いて歩いた。
 もちろん、何よりもまずセーラの携帯に電話してみたのは云うまでもない。
 しかし、何度かけなおしても、彼女の携帯は電波が届かないらしく、繋がらない。
 イリアやアンジュに連絡を取って協力を願うことも考えたのだが、残念ながら彼らの連絡先はおろか、その所在がまるで掴めなくなっていた。
 どういうわけか、ホテルのフロントに訊ねても、「そのようなお客さまはお泊まりではございません」と云われた。最上階にある大きな部屋を取っているはずだがと食い下がると、「当ホテルには左様な部屋はございません」と、危うく警察を呼ばれるところだった。
 結局、頼りになるのは自分の足しかなかった。
 最悪の事態が想像されて、シュテファンは血が凍る思いだった。
 セーラが眠っているものと思いこんで自分が呑気に構えていた間に、彼女がロベルトと同じような獣の餌食になっていたとしたら………――――――?
 我を忘れ、時間も忘れて、シュテファンは街中を彼女の姿を飛ぶように探しまわった。
 両脚が棒のように硬くなり、歩くのもやっとなほど疲弊しきった頃、彼はようやく、空が少しずつ白みはじめていることに気がついた。………夜明けである。
 シュテファンは体に鞭打って、再び宿泊先のペンションへ歩きはじめた。
 ――――――ええい、畜生。足が思うように動かないじゃないか。
 これで彼女が帰ってきていなければ………公的機関の力に頼る他にない。
 そう考えたところで、シュテファンはふと、なぜ自分が最初から警察へ届けなかったのかと自問した。もしかして………自分はやはり、若い女性と二人でこういう場所にいると公に知られることを、無意識に避けようとしていたのだろうか………スキャンダルを恐れて………?
 ――――――いや、違う。
 彼女は………セーラだけは、俺一人の力で守れるのだと………確かめたかった。
 イリアが、絶対にアンジュのことは自分が守るのだと、云い切ったように。
 俺にもできるんだと………それを証明したかったからだ。
 心臓がおかしな脈を打っている。
 彼の病に冒された心臓は、昨夜からの肉体的な労働と精神的な衝撃に酷使され、そうとう弱っていたのだが、シュテファン自身はまったく意に介していなかった。
 セーラさえ………彼女さえ無事なら………――――――。
 そうこうしているうちに、見慣れた宿の姿が見えてきた。
 胸に再び、期待と不安が混ざり合った複雑な痛みが走る。
 ………ああ、帰ってきていてくれ。
 どうか、セーラの気配が、この扉の向うに息づいていますように………――――――。
 祈りをこめて、玄関のドアを開ける。
 ――――――部屋の中は自分が最後に出ていった時と同じく、しんと静まり返っていた。
 それでも一縷の望みをこめて、シュテファンはセーラの寝室を開ける。
 ――――――………いない………!
 シュテファンは一瞬、誰かの慟哭を聞いたような気がした。
 幸せな王子の鉛の心臓が、まっぷたつに割れる時のような音。
 俺のツバメは、いったいどこへ飛んで行ってしまったんだ………――――――?

「――――――………シュテファン………?」

 ああ、これはまた幻聴なんじゃないか。
 ペンションに様子を見に戻ってくるたび、まさにこんな声を聞いたんだ。
 玄関の敷居に、大きな榛色の眸を見開いて、彼女が立ちつくしている。
 ――――――………これも幻覚なのか?
 シュテファンはぼんやりとセーラの幻影を眺めていた。
 いつも幻は、彼が安堵して相手の名を呼んだ途端にかききえてしまう。
 だから今、シュテファンは咄嗟に声が出なかった。
 ひとこと「セーラ」と呼んでしまえば、彼女はまた消えてしまう………。
 実際、その“幻影”は消えなかった。訝しげに眉を寄せて、じっと自分を見つめている。
「………シュテファン、どうしたの?」
 セーラが近寄って来た。
 なんだか今回は、馬鹿に鮮明だな。
 間近からこちらを見上げてくる彼女の息遣いも聞こえるし、身体の温もりまで伝わってくるようだ。………ああ、でもそういえば、夢でもこれくらいリアルな感触があったっけ。
「シュテファンったら! ねえ、大丈夫?」
 突然、彼女の幻はシュテファンの身体を両腕で掴み、揺すぶってきた。
「――――――………セーラ」
「顔色が真っ青よ。いったいどうしたの? 体の具合でも悪いの?」
 ――――――………名前を呼んでも、消えない。
 心配そうに、まっすぐ俺を見つめてくる眼差しは、まさにセーラだ。
 シュテファンは、指でそっと確かめるように、彼女の頬の輪郭をなぞった。
「………本当に、君なんだな」
「ちょっ、……どうしちゃったのよ」
 シュテファンの行動に戸惑って、彼女の顔は仄かに赤らんでいる。
 ――――――本物なんだ。
 ………しかも、無事で、どこも傷つかないで。
 帰ってきてくれたんだ。
「よかった………――――――」
 思わず、力の限りにセーラを抱きしめていた。
「よかった、………本当によかった」
「シュテファン………」
 ――――――ああ、でも、やっぱりこれも夢なんじゃないか。
 彼女の腕が自分の背中に回されたのを感じた途端、シュテファンはそれっきり、何も分からなくなってしまった。



「――――――うん、そうなの。大丈夫………。ええ。………どうもありがとう。じゃあね」
 携帯電話をキッチンテーブルの上に置くと、星螺はマグカップに残っていたコーヒーを飲み乾した。
 午前六時………あれからずっと、シュテファンは眠りつづけている。
 それでも、星螺の心中はこれまでにないほど穏やかだ。
 木製の椅子に腰かけたまま、目を瞑って、今までのことを回想する。

 何かに呼び寄せられるように杏珠の許を辞してから、急ぎ足でペンションへ帰って来てみると、魂を抜かれた人のようなシュテファンが、放心状態で自分の寝室の前に立ち尽くしていた。
 声をかけても、何の返事もない。
 ………怒っているのだろうか。
 いや、そんな気配ではない。
 間近から彼の顔が尋常でないほど蒼ざめているのを見た時は、星螺も一瞬背筋が凍ったが、自分を抱きしめた腕や胸に確かな血の温もりを感ると、ほっと安堵した………―――と思った瞬間、星螺に寄りかかったまま、ふわっとシュテファンの意識が遠のきはじめた。
 星螺は咄嗟に彼の身体を、目の前に扉の開かれている自分の寝室へと導いた。
 幸い、すっかり意識を失ってしまう直前に、シュテファンは星螺のベッドに辿りつくことができた。そのまま倒れこんで、すやすやと寝息を立て始める。
 念のため、星螺はシュテファンの脈をとり、呼吸を確かめた。少し躊躇したものの、服も脱がせて身体も検めた。万が一怪我をしていたらと考えたからだが、無用の心配だった。
 どうやら本当に、ただ熟睡しているだけらしい。
 ほっと息をついて衣服をなおし、丁寧に布団をかけて、寝室を出た。
 ――――――………でも、いったいどうしちゃったのかしら………?
 星螺はほどなくその理由を知った。
 杏珠に連絡するために携帯電話を取り出してみると、昨夜の内に数十件も、シュテファンからの不在着信が入っていたのだ。
 履歴の間隔はほぼ十分おき。
 ――――――間違いない。
 彼は昨夜、まったく眠っていないのだ。
 ………そういえば、服もきのう着ていたもののままだったし、ズボンの裾はかなり汚れていた。
 ――――――この人は………まさか。
 あれからずっと、私を捜していたの………?
 一晩中、眠らずに歩きまわって………疲れきって………――――――?
 視界に映る携帯電話の液晶画面は、みるみる水の底に沈むようにぼやけていった。
 ――――――………シュテファン。
 ごめんね。
 ごめんね………――――――。

 あれから二時間以上は経ったろうか。
 時々部屋を覗いてみても、シュテファンはずっと正体なく眠りこけていた。
 星螺自身も昨夜はほとんど眠っていないのだが、杏珠のお蔭できれいに疲れはとれていたし、さっき飲んだコーヒーも手伝って頭はすっきりしている。いつシュテファンが起きてきてもいいように、今度は多めに淹れたコーヒーを保温のきくサーバーにおいて、卵を茹でてミモザサラダもつくり、朝食の用意を整えてしまった。
 ――――――………午前七時前。
 時計を見て、星螺はまた立ちあがった。
 ………もう一度、様子を見て来ようかな。場合によっては、そろそろ起こしてあげよう。
 自室の前まで歩みをすすめて、星螺はふと、一昨日の夜、自分がシュテファンの寝室の前に長いこと立ち尽くしたまま、ハムレットみたいに悩んでいたことを思い出した。
 思わず苦笑が漏れる。
 今なら、こんなに自然な気持ちで扉を開けることができるのに………――――――。
 ちょっと中の気配に聞き耳を立ててから、そうっとドアを押す。
 シュテファンはまだ眠っていた。
 足音を立てないように気をつけながら、ベッドのそばへ歩み寄る。
 ………やだ。なんか赤ちゃんみたい………。
 無防備な寝顔のシュテファンを、星螺は我が子を眺める母親のような気持ちで見つめていた。
 しかし不意に、こちらの気配を感じ取ったのか、彼の手がわずかに動いた。
「――――――………ん………――――――」
 規則正しかった寝息が微妙に乱れ、吐息になる。
 眉をしかめ、かすかに身じろぎする彼の姿を見ていたら、星螺は急に、胸をしめつけられるような、切なくてやるせない想いに襲われた。
 カーテンの閉められた部屋は、明るすぎずしっとりと落ち着いている。
 聞こえてくるのは、波の音とカモメの声だけ。
 ベッドに横たわっているシュテファンが、星螺の目には泣きたくなるほど美しい。
 知り合ってから今までの出来事が、走馬灯のように心の中を駆けていく。
 ――――――旅行に誘われたことで一気に膨らんだ想いが、胸から零れ落ちそうで………。
「――――――………シュテファン」
 ふと唇から洩れた声が、自分のものに思えなかった。
 それくらい切なくて、何か強い想いを含んだ声音だった。
 そっと膝をついて、頭を垂れる。
「お願い………たった一度だけでいいから………――――――」

 ――――――………たった一度でも、私を………――――――

「――――――………セーラ」
 星螺はハッと顔をあげた。シュテファンが目覚めたのだと思ったのだ。
「セーラ………」
 ――――――しかし、なんだか様子がおかしい。
 幽かで、まるで魘されているかのような、今までに聞いたことのない声音だ。
「シュテファン………?」
 顔を覗き込むと、彼の眼は閉じられたままだった。
 苦しそうな息の下で、呻くように何かを呟いている。
「俺が………こんな…こと………ちゃ、いけないんだ………」
 星螺は思わず、彼の唇に耳を寄せた。
「――――――………君を………誰にも、渡したくない………」
 これは………寝言?
「………でも………俺が穢しちゃ………いけない………でも………」
 どういう意味なの………――――――?
「俺は、ダメだ………あ、セーラ………行かない…でくれ………俺を…独りに…しないで………………怖い………いつか、君は…消えて…しまう………」
「まあ………」
 星螺は目を見開いた。
 ………思いもよらない言葉を聞いてしまった。
 驚くと同時に、何か静かで、夜明けの空みたいに澄みきったものが溢れてくる。
「――――――………馬鹿ね」
 星螺は微笑んで、ベッドのふちに浅く腰かけた。
「まったく、何を云うかと思ったら………。シュテファン、貴方って本当に馬鹿だわ」
 布団の外に投げ出されている彼の手を両手で包み、指先でそっと撫でさする。
「いったい、私がどこへ行くと思ってるのよ。私はいつまでも、ずっと貴方と一緒にいるわ」
 相変わらず、シュテファンの顔には苦しそうな表情が浮かんでいる。
 星螺は手を握る指先に力を込めて、シュテファンの頭のほうへ身体を屈めた。
「もう先からそう決めてたのよ。だから心配しないで。何があってもそばにいるから………ね」
「セーラ………行かないで………」
「私はここにいるわ。ほら」
 そう云って、シュテファンの手を自らの頬に優しく押し当てる。
 されるがままだった指先が、ふと、その感触を確かめるように自ら動きはじめた。
 ――――――あ、いけない。ドキドキしてきちゃったみたい………。
「だから、シュテファン………私のお願いも聞いてちょうだい」
 頬から首筋を撫でるように触れてくる彼の手の感触に、頭がぼうっとしてしまう。
 気の所為でなければ、シュテファンの息遣いも別の意味で乱れ始めているようだ。
 星螺は息が震えるのを必死でこらえ、眼を閉じた。
「――――――………一度だけでも、私を好きだって云って」

 応えてくれるだろうか。
 お願いします、愛の神さま。
 一度でもこの人の本心を言葉で聞けたら、もう怖いものは何もない。
 二度と逢えなくなったって、きっと平気になれるのに。
 あの、たったひとことが欲しい。
 シュテファン、お願い。
 本当のことを云って………――――――。

「――――――………セーラ……?」
 戸惑った声は、別次元から響いてきたかのようだった。
 閉じていた瞼をあけると、見慣れた青緑色の双眸が、呆然とした、しかし確かな正気を孕んだ眼差しで、間近から自分の顔を見つめている。
 彼の大きな手は、彼女の頬から顎にかけてを覆い包むように触れたまま。
 一時、二人は食い入るように見つめ合った。
「………………もう、朝なのか?」
 パッと頬を染めて、シュテファンは何か誤魔化すように笑みを刻んで、ひょいと自分の手をひっこめようとした。
「そうよ」
 笑って応えながら、星螺はそれをすかさず引き戻し、掌に優しく口付ける。
 一瞬、シュテファンの全身が震えた。
 柔らかく握ったまま、星螺は彼の胸の上にその手を戻してやった。
「朝ご飯ができてるわ。一緒に食べる?」
 にっこり笑って明るく問いかける星螺を、シュテファンはびっくりしたように眺めていた。
 しかし彼もまた、ありったけの愛情をこめた微笑みを返して、胸の上の彼女の手を、両手で優しく握りりながら、小さく肯いた。
「………ありがとう、セーラ」




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