神父たちのバカンス事情



7

 突然、ポケットの中で軽快な電子音が響きはじめて、シュテファンは持ちあげかけたワイングラスを再びテーブルに置いた。携帯を取り出し、表示画面を確認する。
「………失礼」
 軽く会釈して座席を立つ。
 同時に、隣に座る娘をチラリと一瞥する。案の定、彼女は敏感に自分の眼差しを察知して、それとわかる程度の微笑みを返してくれた。
 ――――――それだけのことで、なぜか、とても胸が温かくなる。
 セーラとアンジュが日本語で談笑し始めたのを背中で聞きながら、シュテファンは部屋を出た。

 午前いっぱい、ペンションでゆっくりと休息できたからか、昨夜の疲れはほとんど残っていなかった。それどころか、何かが心の中からすっきりと洗い流されたような、清々しい気持ちだった。こんな心持はもう長いこと経験していない。
 昼過ぎにどちらからともなく提案しあって、セーラと再び海へ行った時、きのうのような幽かな翳りも不安も、わだかまりも、ぎこちなさも消えて、心から楽しむことができたのも、シュテファンは嬉しかった。ようやくバカンスらしい時間を過ごせたような気がする。
 もっとも、きのうのこともあったので、シュテファンは一応周囲を警戒していた。しかし幸いなことに、二人を窺うあの灰色の双眸は、微塵もその気配を感じさせなかった。
 アンジュが二人の許へやってきたのは、一時波に遊びたわむれた後、休憩のために砂の上へ並んで腰をおろした時だった。目ざとくその姿をみとめたセーラはすぐに立ち上がって、熱い抱擁で友人を迎えた。――――――なんでも昨夜は、シュテファンと一緒にセーラとロベルトの許へ駆けつけたアンジュが気を利かせて、傷心のセーラに付き添っていてくれたのだという。
 その事実を知るシュテファンには、今、アンジュがセーラの守護天使のように見えた。セーラは本当にいい友達を持ったと思う。そしてまた、それを素直に喜べることも嬉しかった。
「実はイリアが、今晩は是非、シュテファンさんとセーラ、二人一緒に、おもてなししたいって云いだしてまして………」
 それを伝えるために来たらしい。
「本人は用事があるとかで来られないらしいんですけど、もう、部屋もリザーブしちゃったって。………まったく、二人の予定も聞かずに勝手なんですから、あの人」
 ――――――これが、現在シュテファンが、アンジュとセーラ、二人の娘に囲まれて、リストランテのセパレーに鎮座している真相だった。
 きのう、ロベルトを殴り飛ばしたセパレーもなかなか立派だったが、今夜、イリアが用意してくれたという部屋は、それとはくらべものにならないほど贅がつくされている。専用のミニバーやバスルームまでついていて、まるでホテルの一室のようだ。
 シュテファンとしては、バカンス最後の一夜はセーラとゆっくり過ごしたいのが本音ではあったが、二人の娘たちが普段は遠距離のために滅多に逢えないことや、セーラの友人に対する心から嬉しそうな笑顔を見ていたら、それもいいかもしれないという気持ちになっていたし、一度くらい、アンジュともゆっくり話したしてみたいと思っていたので、結局快諾したのだった。
 もう、肩を組んで楽しそうに語り合うセーラとアンジュを見ていても、きのうのような激しい嫉妬に襲われることもなかった。
 ――――――それは今朝、あのとても美しい夢を見たせいかもしれない………。

「もしもし」
 後ろ手に扉を閉めつつ端末を耳に当てると、屈託のない声が返ってきた。
『シュテファン兄さん?』
「やあ、どうしたんだ。僕はまだイタリアだよ」
『わかってる。明日こっちへ帰ってくるんだったね』
 ………さすが、几帳面が売りの弟だ。自分よりもこっちのスケジュールを把握している。
『そっちの様子はどう? 何も変わりない?』
「ああ」
『ペンションの管理人さんは………』
「ああ、元気そうだったよ」
 延々と続きそうな弟の会話を予感し、シュテファンは思わず溜息を漏らした。
『――――――………あ。兄さん、ひょっとして今、取り込み中?』
「え? あ、いや。そんなことはないんだが」
 ………しまった。ラジスラフは、そういうことには目ざといタイプだったんだ。
『だって兄さん、いつもなら必ず連絡をくれるのにさ。今回に限ってまったく音沙汰がないもんだから、ちょっと心配になってね』
「そうか………悪かったな」
 ――――――確かにそうだった。
 思えば、この不思議なバカンスに旅立つ羽目になったのも、元を辿ればこのラジスラフが同行できなくなったためだった。それなのにあまりにいろいろなことがありすぎて、弟の存在など、きれいに心の中から吹き飛んでしまっていたのだ。
 今だって、聞き慣れているはずの弟の声すら、どこか異界からの通信に感じられてしまう。
『やっぱり誰かと一緒?』
「えっ?」
 唐突な弟の問いかけに、シュテファンは思わずたじろいだ。
「あ、いや、ええと………結局、独りで来たよ」
『そっか』
 ラジスラフは、兄のしどろもどろの反応を特に不審にも思わなかったらしい。
『とにかく、明日は気をつけて帰ってよ。着いたら連絡して』
「ああ、わかった」
 ――――――まったく。いつまで経ってもお節介なんだから………。
 シュテファンは苦笑して通話を終了させると、携帯の電源を切ってしまった。



 ――――――………あーあ。
 シュテファン兄さんって、ホントに嘘が苦手だな。
 あれじゃ、バレバレなんだけど………。
 ラジスラフは手の中の携帯電話を見つめて、ほっと溜息をついた。
 ――――――今回、どうして旅行と仕事がダブルブッキングしてしまったのか、正直のところ、ラジスラフ自身にもよくわからなかった。
 確かに宿の予約をする時、しっかり予定を調整して日取りを決めたはずだったのに………。
 いくら気をつけていても、長い人生の間には、たまにこんなこともあるのかもしれない。
 しかし、兄をけしかけるような言葉を云ったのは、故意からであった。
 自分と同じく聖職者であるシュテファンが、こともあろうに、ある若い女性を深く愛してしまっていることは、兄が自ら打ち明けてくる以前からわかっていた。
 ――――――いや、シュテファンが自分に打ち明けたのは、“とある女性に恋されている”という告白だったのだが、それ以上に、兄のほうがより深く激しい恋心を抱いていることくらい、恋愛ご法度の自分でもよくわかる。
 あんなふうに見えて、意外とストイックで使命感と責任感の強い、誠実な兄である。
 そこらでよく見かける司祭たちとは違い、滅多なことで道を踏み外したり、誘惑に溺れたり、モラルを侵すような行動に走ったりは、決してしない。………というより、できない。
 だからこそ、ラジスラフは余計に兄の恋が心配だった。特にシュテファン自身、自分がいかに深い愛情をその女性に抱いているのか、まるで自覚ができていないらしいことが、なおのこと事態を深刻なものにしていると思われた。
 このままでは、神父としての兄の生命にかかわるのではないか………。
 その女性にとっても、彼らの関係はあまりよろしいことではない。
 まだ、一線を越えていないからこそ危険なこともあると、ラジスラフは考えている。
 しかし、兄の女性に対する想いも態度も、何年経っても変わらない。
 誰かと一緒にバカンスへ行ったら………――――――そう口にしたのは、そんなシュテファンの曖昧さや優柔不断さに、弟としてもいい加減業を煮やしはじめていたからだ。
 ………結局、兄は自分の言葉を真に受けて、あの女性を同行させたらしい。
 まったく………――――――。
 そうは思いながらも、ラジスラフはなぜか、兄に対してそれほど憤慨していなかった。
 聖職者である兄と、将来のあるうら若い女性の、もう友情とは云い難い感情の交流は、自分の危惧しているとおり、本来ならば由々しき問題のはずだ。やっぱり、できることなら兄には、彼女との関係をなんらかの形で清算して貰いたい………頭ではそう思っている。
 でも、その女性との親交が深まるにつれて、どこか自分と云うものを捨て去ってしまったようなところのあった兄が、少しずつ心の色彩を取り戻しつつあり、また、長年傷つけられた魂の癒されつつあることも、否定しようのない事実なのだ。
 ――――――このバカンスで、兄は何らかの一歩を踏み出すのだろうか。
 そうできたとして、彼はいったい、どこへ向かっていくのだろう。
 しかし、それがどのような道であっても、弟であり、神のしもべたる自分は、必ず兄を支えていきたいと、ラジスラフはその夜、決意を新たにしたのだった。



 もうすっかりお馴染みになってしまったリゾートホテルの入り口に、黒装束に包まれた長身をみとめた時、シュテファンも、セーラも、アンジュですら、驚きを隠せなかった。
 独りで帰れるからとアンジュが遠慮するのを押し切って、シュテファンはセーラと、彼女をホテルへ送り届けてきたところだった。
「イリア神父………」
「イリアさん」
 シュテファンとセーラは親愛のこもった笑顔で、イリアの真白な手袋に包まれた冷たい右手と握手を交わす。おそらくきのうの一件以来、セーラにとっても、この異形の司祭はある意味特別な存在となっているに違いなかった。
「杏珠。お前は先に部屋へ入ってろ」
 セーラと密着するようにしていたアンジュに、イリアが声をかける。
「えっ、どうして」
「どうでもいい。とにかく入れ」
「だって、あたしはまだ星螺と………」
「俺の代わりに、彼女とは二晩つづけて一緒にいたじゃないか? 気を利かせろ。もういい加減、二人きりにさせてやれ」
 日本語なのでシュテファンには意味がわからなかったが、セーラが耳元で通訳してくれたところによると、イリアに部屋へ帰るよう促されているらしい(ただし、イリアの最後の言葉には頬を赤らめただけで訳してくれなかった)。
 抗議するような声音だったアンジュが、セーラと自分にしぶしぶおやすみの挨拶をして先にホテルへ入ってしまうと、イリアはあの印象的な赤い眸を二人へ向けた。
「娘が御厄介になりました」
「私こそ、アンジュには今回本当に助けて貰って………貴方にも、心から感謝しています」
 丁寧に礼を云うセーラに軽い会釈で応えると、イリアは軽い吐息とともに言葉をつづけた。
「あのロベルト・イラーセクという神父ですが、今朝、イタリアを出国したのを確認しました」
 ――――――きのうから気になっていたのだが。
 この男、いったいどんな情報網を握っているのだろうか………。
 本当にモンテ・クリスト伯爵のような男だ。
「もう、貴方がたがどこで何をなさろうと盗撮される気遣いはありません。………Buona notte.(よい夜を)」
 それだけ云うと、イリアもくるりと背を向けて、スイングドアをくぐっていってしまった。

「――――――美味しかったわ。今夜の夕食」
「そうだね」
 ペンションへの帰路。
 二人はどちらからともなく、もっとも短距離の市街をぬける路地ではなく、浜辺を経由する道を選んで、ゆっくりと歩を進めていた。
 もう真夜中は過ぎているだろう。
 いくら日の長い欧州の夏とはいえ、西の空には、すでに太陽の名残りの欠片もない。街灯も届かない暗い砂浜で空をみあげると、満天の星が瞬く幻想的な光景が広がっていた。
「だけど、あんな豪華な料理や演出を用意してしまうなんて………イリア神父って、いったいどういう人なんだろうな」
 特に他意もなくシュテファンが笑いながら云うと、星を見上げたままのセーラが応えた。
「アンジュの愛している人よ」
 予想外の言葉に、思わず彼女を見下ろす。
 暗すぎて表情はわからない。でも、シュテファンには彼女の微笑みが見えるようだった。
「確かにいろいろ謎の多い人だし、何かこう、人間ではないような気配を感じさせるわ。………それでも私には、アンジュが彼を心から慕っているというだけで、無条件に信頼できてしまうの」
「――――――そうか………そうなんだ」
 ………やはり僕には、イリアが羨ましい。
 しかし、誰でもないそのイリアのお蔭で、わかったこともある。
「――――――今朝、夢を見たんだ」
 再び星空に眼差しを戻して、シュテファンは静かに口を開いた。
「夢………――――――?」
「そう、嫌な夢だった。具体的な内容は忘れてしまったけれど、何かとても大切な、かけがえのないものを失くして、どこを捜してもそれが見つからないような………――――――」
 いつぞや、冬の凍てつく大気の下で、セーラとこうして星を眺めた夜のことが思い出される。
 あの時は彼女のほうが、胸に秘めた恐怖や悦びについて、語ってくれたのだったっけ………。
「まあ………」
「でも、それでおしまいじゃなかった」
 哀しむセーラの声を遮るように、先をつづける。
「つまり………最後には、それが見つかったんだよ。だから目が醒めた時はもう、怖くなかった」
 そう………――――――今朝、目が醒めた時。
 口付けせんばかりのところにあるセーラの顔を見て、僕は、これはあの夢のつづきなのではないかと思ったほどだった。台詞まで一緒だった気がする。
 ――――――………ただ一度でも、私を………――――――。
 いや、違う。
 それよりも少し前に、もっと何か、素晴らしいことを聞いたような気がする。
 それが何だったのか………なぜかどうしても思い出せない。
 今目の前にいるセーラに訊ねたって、夢の中のことがわかるわけじゃないのに………。
 ………なぜ僕は、彼女にこんな話をしているのだろう?
 ところが、微かな吐息とともに洩れたセーラの声音には、不思議な響きがあった。
「――――――………そうね。貴方は、見つけることができたんだわ………」
 彼女の言葉の意味を理解するより先に、シュテファンはやわらかな抱擁の中に落ちた。
「シュテファン、大好き………」
 胸に顔を埋められて、心臓がドキドキと跳ねる。
 しかし、どうしてもこんな時、シュテファンは本心とは別の反応を示す。だから、彼の両腕は戸惑いに硬直するばかりで、彼女を抱き返してやることもできない。
「セーラ………」
 声もどこか強張って、冷たい響きになってしまう。
「前から何度も云ってるように、僕は、君に何もしてあげられない。イリア神父みたいに………」
 一瞬、躊躇したが、もう舌を止めることはできなかった。
「………イリア神父みたいに豪華な旅もプレゼントできないし、彼のような愛情で、君を包み込んで守ってあげることもできないんだよ」
「なぜ、貴方はいつもそんなことを云うの?」
 優しい静かな声が、胸元で囁く。
「貴方からは貰いすぎるほど貰っているわ。貴方は何もしなくていいの。………貴方が私の気持ちをどうにもできないように、私だって貴方を何かに押し込めようなんて思わない。今のままの貴方が私は………好きなんだし………求めているのだから………」
 つと、星の光に輝くセーラの双眸が見上げてきた。
「云ったでしょう。私はいつまでもずっと、貴方と一緒よ」
 ――――――これも夢なのだろうか。
 ………――――――それとも、“あれ”が夢ではなかったのだろうか?
 今度こそシュテファンは、腕の中にしっかりと彼女を抱きしめていた。
 すぐ耳元に、セーラの息遣いを感じる。
「シュテファン………」
 もどかしげにこちらの背中をまさぐるセーラに応じて、シュテファンも両腕に力をこめる。
 胸に抱いている、愛しい命。
 優しい温もりがどこまでも愛しい。
「貴方が、好き………愛してるわ」
 ほとんど喘ぐような囁き声に、シュテファンは、彼女の頬へ口付けることで、応えに代えた。
 それに対するセーラの接吻を頬に受けたところで、再び想いの限りをこめて彼女を抱きしめる。
 ――――――………俺は、これで満足だ。
 この胸の中にも、まだ、誰かを情熱的に想うだけの愛情が残っていた。
 イリア神父、貴方の云うとおりだった。貴方のお蔭で、俺は新しい自分を発見したのだ。
 ………それでもまだ、俺にはこれ以上の言葉は云えないし、行動を起こす勇気もない。
 でも、セーラ自身がそばにいてくれると云うのなら、俺は甘んじてそれを享受しよう。
 そして、彼女が添いつづけようというかぎり、僕も心から寄り添いつづけるだろう。
 ………それは一生変わらない。
 たとえ、決して言葉にならなくても。
 ――――――彼女を、愛しているから。



『――――――………で?』
「………で、って?」
『んもう、星螺のドンカン!』
 端末の中で杏珠が叫んだ。
『ほっぺにキスしたんでしょ? いい雰囲気だったんでしょ? その後どうなったの?!』
 電話越しにも、話の続きを眸をキラキラさせて待っている彼女の姿が目に浮かぶ。
 星螺は思わず携帯を持ち直すと、チラリと背後を一瞥した。通話の間に二人の荷物を車に積みおえてしまったシュテファンは、紳士らしく星螺の声の聞えない程度の距離を保って、窓から外の景色を眺めている。………もっとも、彼は日本語がわからないのだから、そばにいても構わないのだが。
「どうなった………って云われても」
 ――――――………ど、どう云えばいいんだろう………――――――。
 杏珠が意図していることは、いくらこういうことに鈍い自分だってよくわかっている。
 戸惑って言葉を探すと同時に、昨夜、星空の下でシュテファンから頬に受けた、彼にしてはちょっと大胆で情熱的な唇の感触が鮮明に蘇って、思わず星螺の心臓は跳ね上がった。
 今までにないくらい長くて強い抱擁のうちに、何度そんな口付けを受けたろう。
 ………ただし、みんな頬だけだ。
 星螺も彼の頬へ唇を寄せるのがやっとだったけれど、それだけでも頭がくらくらして、心臓がおかしくなりそうだった。
 どれくらいそうしていたかわからない。
 どちらからともなく、指を絡めるようにして手を繋いで、帰路に就いた。
 ペンションに戻ってから、コーヒーを淹れて………密着するように、彼のベッドに腰かけてそれを飲んで………長いこと見つめ合っていて………それから、それから――――――。
『ロストバージンした?』
 電話の声が回想を遮る。
「杏珠っ!」
 思わず声が裏がってしまった。
「いや、その………えっと………お願いだから、そんな直接的に云うのはヤメテ」
『シたの?』
「うっ」
 ダメだ。
 いくら杏珠が相手でも、なんとなく云いづらい。
「杏珠、ごめん。携帯の充電が切れちゃいそう。家に帰ったらメールに全部書くから」
『わかった、わかった』
 こんな他愛のない嘘は杏珠にはお見通しだったに違いないが、星螺の羞恥をどんなふうに理解したのか、彼女はくすくすと笑っていた。
『きっと書いてよ。すンごい楽しみにしてるから!』
「う………うん」
 ――――――………ああ、神様。
 その後、もう一度頬におやすみのキスをしただけで、それぞれ自分の部屋で寝たんだって云ったら、杏珠、なんて思うかなあ………――――――。
「電話、終わった?」
 吐息をつきながら手の中の携帯電話を見つめていると、いつのまにかシュテファンがすぐそばまでやってきていた。今までよりも、彼がこちらへ詰めてくる距離が近い。昨夜以来、肩と肩、腕と腕が触れ合っているのが当たり前のようになっていて、特にお互い、それを指摘もしない。
 目の前にある優しい眼差しに、にっこり微笑みかける。
「待たせちゃってごめんね」
「いいんだよ。………じゃあ、そろそろ出発しようか」
「ええ」
 並んで歩きだすと同時に、シュテファンは大事なものを守るようにそっと星螺の肩を抱いた。
 見上げると、あの彼らしい、はにかんだ微笑みを浮かべている。
 星螺も、歩きながら柔らかくその肩に頭をもたせかけた。
 ――――――………結局、今までと何も変わっていない。
 雰囲気はほとんど恋人同士なのに、愛の言葉も、一線を越えたこともない、曖昧な関係。
 しかし、このバカンスの間に、二人の間で確かに何かが変わり、距離も縮まったのだ。
 ………そしてそれは、肉体よりも心のほうではなかったかと、星螺は感じている。
 ――――――あの、魂から欲するひとことは、とうとう貰えなかったけど。
 やはり、自分はそれよりもずっとかけがえのないものを与えられていると思う。
 シュテファンを愛している………そして、彼に愛されている。
 その真実と確信以上、いったい何を望めるだろう。
「運転、疲れたら代わるからね」
 助手席のドアを開けてくれたシュテファンに、わざと眉を顰めて見せながら、念を押す。
「ああ、わかった。その時は頼むよ」
 そう云って笑いながら、五十の坂を越えた神父は運転席に乗り込んだ。
 ――――――またいつか、ここへ来られるかしら。
 星螺は座席に腰をおろす前に、もう一度、目を瞑って潮の香を深く吸い込んだ。
 その時までに、私やシュテファンは、いったいどうなっているのかしら。
 人の運命は明日もわからないもの。
 だからこそ、その日、その時を大切にしていきたい………――――――。
 星螺がドアを閉めると同時に、シュテファンはフォルクスワーゲンのエンジンをかけた。
 ――――――私はこの夏の数日間を、一生忘れないだろう。





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