神父たちのバカンス事情



エピローグ

 大海原から流れる風に、黄金の髪が舞う。
 黄昏のかすかな残り香のような明かりも消え去り、夜の闇が漂い始めた中でも、血のように赤い眸だけがルビーのように輝いている。
 目の前に広がる水と大気を眺めながら、イリアは人気のない浜辺に立ち尽くしていた。
 もっとも、今仮に人間がここを訪れたとして、その姿は見えるはずもない。
 おそらく気配を感じ取ったとしても、彼の放つナルドの香りが鼻を掠める程度だろう。
 ――――――しかし、先ほどから自分を注視している者があることを、イリアは承知していた。
「いい加減、姿を見せたらどうだ」
 目を眇めるようにして呟くと、爽やかな風が巻き起こるとともに、“彼”は現れた。
『………イリア様』
 ――――――銀色の眸に、七色の翼。
 早朝の山脈を流れる渓流と花の芳香を足したような香りが、彼の気配である。
「どうだ。満足したか」
 一昔前の執事を思わせる丁寧な所作で頭を下げる天使に、イリアは素っ気なく云う。
『このたびの貴方様のご協力には、お礼の申しようもございません』
「まったく………一度お前を内偵に使ったために、とんだ茶番に付き合わされてしまったぞ」
「それは俺の台詞だ」
 突然、イリアの隣で不機嫌な声をあげたのは、アザゼルである。
「なんだ。ベルボーイの役は不服だったか」
「そんなことじゃねえ。あのスカルピア気取りの好色神父の私物をいじったり、例のおっさんの弟のカレンダーに細工したり………。だいたいあんなふうにコソコソするのは俺の性じゃねえんだよ。それもよりによって、あの頭がお花畑な処女の納豆女と、その納豆に頭がイカレてるおっさんのためだぞ。俺はもう、こんなのに付き合うのは二度とご免だぜ」
『貴方様のご活躍にも、もちろん、心より感謝しております。………しかし、わたくしがご協力を願いましたのは、イリア様だけでございますので、わたくしに不平を仰るのはお門違いかと』
「あん?!」
 天使のしれっとした応答に、アザゼルは目を剥いた。
「ったく、だから天使ってのは気に食わねえんだ!」
――――――………なあんちゃって、本当は結構楽しんでいたんでしょ?
 そんな声がして、天使の両肩の上へふたつの光の玉が舞い降りてきた。
 右肩にひとつ、左肩にひとつ。………その光の中に、小さな人間の姿が見える。
 アザゼルは舌打ちした。
「なんだよ、お前らもグルだったのか」
――――――わしらは見守っていただけだ。
――――――イリアさん、黄門様みたいでかっこよかったあ!
「んなのただのデバガメじゃねえか! ってか、なんでお前らが水戸黄門なんか知ってんだ」
「あのふたりは、どうなった」
 小人たちとアザゼルのやりとりを無視してイリアが訊ねると、天使はふわりと微笑んだ。
 それはそのまま、彼が守護する魂をもつ娘の表情と重なる。
 イリアが彼女の微笑みを直に見たのは、昨夜の一度だけだったろうか。………杏珠とはまったく違うのに、やはりどこか、似たところがあるような気がする。
『お蔭さまで、無事に帰路を終えました』
「でも、あいつらとうとう何もしなかったじゃないか」
 アザゼルが手を髪につっこみながら間に割って入った。
「お前の目的もそれだったんだろ? せっかくのシナリオも台無しだな。好色神父やおっさんの弟や、挙句に俺や主まで巻き込んでおいて、結局何も変わらなかった。裏でこんだけ大がかりなお膳立てをしてるのも知らずに………潔癖さや頑固さもここまでくるとハタ迷惑でしかねえ」
『そのようなことはございません』
 天使の声音に、凛とした響きが雑ざる。
『人間が糧を得る過程やその顕れ方には、様々な方法がございます。身体の距離や結びつきもそのひとつに過ぎないということが、貴方様にはおわかりにならないのです』
――――――そのとおりだ。シュテファヌスもお蔭でいくらか成長したぞ。
――――――まあ、スティーヴンの頑固頭は筋金入りだからね。そこは同意するよ、アザゼル。
「気易く呼ぶな!」
「――――――あの男に伝えろ」
 じっと何か考え込んでいたイリアが突然口を開いて、他の者は一斉に押し黙った。
 しばしの静寂があたりを包む。
 イリアは、唇を開きかけたまま守護天使たちを見つめていたが、つと瞼を閉じた。
「………いや、よい。もう退がれ」
 息を吐くとともにそれだけ云うと、七色の翼とふたつの光の玉は、闇に溶けるように消え去ってしまった。アザゼルは何か云いたそうにしたが、黙り込んでいる主人の様子を見て、溜息をついて遠ざかっていった。
 ――――――再びただ独り、イリアは浜辺に立ち尽くしていた。
 いつのまに上ったのか、欠けはじめた月が地中海を照らし出している。
 それすら目に入らないで、隻眼の神父は世界のもっと奥を見つめていた。
 ………すると再び、物怖じすることもなく、まっすぐ自分の眸を見つめていた、あの高野聖を彷彿とさせる男の顔が脳裏を掠める。

“………アンジュさんは決して誰にも傷つけさせないと、そう仰ったでしょう。そういうことを云い切れる貴方が、羨ましいと思ったんですよ”

“僕には貴方みたいに、愛する存在を守り切れると云えるだけの、根拠も自信もないんですよ。そもそも、僕は誰かを情熱をもって愛する力を失ってしまいました………”

 ――――――………馬鹿な男だ。
 イリアはまた、自分の胸に浮かんだ感情に失笑せずにはいられなかった。
 ………俺にはむしろ、愛する者の思慕と信頼を勝ち得ている、お前のほうが羨ましい。
 そう云ってやろうかと思ったが、考えてみたらそれこそ馬鹿馬鹿しいことだった。
 ――――――ふと、杏珠のことが気になった。今頃どうしているだろう。
 ………今夜くらい、一緒に過ごそうか。
 長い長い瞑想から醒めたイリアは、杏珠が独り過ごしているであろうホテルのほうへ、物憂げな一歩を踏み出したのだった。




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